「“絵画の抽象化”をはじめた近代絵画の父」ポール・セザンヌ|今月の画家紹介 vol.6
第6回はポール・セザンヌについて紹介。「近代絵画の父」といわれる、美術の歴史においてものすごく重要な人物だ。では具体的に彼が何を発明したのか。なぜ「父」なのか。彼の生涯をプレイバックしながら解説していきたい。
フランスの画家。(1839年1月19日 – 1906年10月23日)
当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。
ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。
小説家・ゾラと仲良くなり“表現”に興味を抱いた中学生時代
ポール・セザンヌ
ポール・セザンヌは1839年に南フランスのエクス・アンプロヴァンス(通称・エクス)で生まれる。印象派のクロード・モネが1840年、オーギュスト・ルノワールが1841年生まれ。のちのち解説するが、印象派の時代に活躍した人物だ。ちなみに日本だと高杉晋作と同い年。
お父さんは銀行の頭取という、めちゃくちゃボンボンである。お母さんは彼の家の使用人をしていた女性。セザンヌが誕生した当初は籍を入れていなかった。セザンヌが5歳のときに2人はしっかりと結婚をすることになる。
つまりセザンヌは別に親が芸術家というわけではない。強いていえば、母方のおばあちゃんが椅子職人だったくらいのバックグラウンドだ。
セザンヌは田舎町ですくすく育つ。彼は後年「これ以上の故郷はない。本当に田舎は最高だよ」と振り返るくらいエクスの町が大好きだった。この時期に見た自然の風景は、のちの絵画にも生かされているはずだ。
そんなセザンヌは10歳で地元の小学校に入学。13歳から、ブルボン中学校に入った。ここで彼の人生を変えるような出会いがある。下級生のエミール・ゾラと仲良くなるのだ。
エミール・ゾラ
ゾラを知っている方も多かろう。のちに『居酒屋』や『ナナ』などのベストセラーを生み出す小説家である。
中学生のゾラは親がおらず、すんごい貧乏。かなり悲惨ないじめに遭っていた。小中学生って、ちょっと服汚れてるだけでいじめの対象になりますよね。アレです。
セザンヌは勇敢にも、そんなゾラに話しかける。当然「あいつも“貧乏ゾラ”の仲間だ〜」って具合にいじめっ子グループからボコボコにされた。それを目にしたゾラは「僕のせいでごめんね」と、リンゴの籠をセザンヌに渡した。
このエピソードは、セザンヌにとってとても思い出深いものになる。のちほど紹介するが、セザンヌの絵にはよくリンゴが出てくる。「リンゴ」というモチーフは、セザンヌの人生でも印象深いものなのだろう。
ここから2人は超仲良しになる。この2人は中学生とは思えないくらい大人びていた。例えば当時からセザンヌとゾラは、大人でも難しいホメーロスや、ユーゴーなどの文学作品を読んでは議論していたそうだ。『レ・ミゼラブル』とか読みながら「よっしゃ、いじめっ子を見返したろ」とか考えていたんだろうか。
セザンヌはこの時期「法学」を勉強していたが、一方で18歳からデッサンの学校にも通い始める。そこではじめて絵に触れて「何これ、素描って超楽しいじゃん」ってなる。文学少年なので、絵画にも興味があったのだろうと思う。
当時、デッサンを習いはじめて2年のセザンヌが描いた絵がこちらだ。
父の別荘ジャス・ド・ブッファンに描いた春の壁画 1860年頃 ポール・セザンヌ
後期のセザンヌとはまったく違う「基本に忠実な絵」である。関節とかカクカクでだいぶ人形感が強いが、人体把握などをリアルに描こうとする気持ちが表れている。
そんなセザンヌは、だんだんと「弁護士じゃなくて画家になりたい」と考えるようになる。しかし“ええとこの坊ちゃんあるある”というか、親が教育熱心なので、結局大学の法律学科に進学。しかし心のなかでは「画家になりたいんだ俺は」というもやもやを抱えていた。
そんな彼はゾラに進路を相談している。「弁護士と絵描きのどっちにしようか」と悩むセザンヌに、ゾラは以下の熱いメッセージを送った。
「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな」
いやぁ、さすが未来の大作家。いいことを言う。「絵具で汚れた法服~」のあたりに大作家の片鱗が出まくっている。この言葉を受けて、セザンヌは大学を中退。画家になるためにパリに向かった。
評価されないセザンヌの反骨精神
そんなセザンヌは、名門フランス官営の美大であるエコール・デ・ボザールを受けるがしっかり不合格。そして仕方なく私立のアカデミー・シュイスで絵を学ぶ。アカデミー・シュイスは以前、モネの記事でも紹介した。
エコール・デ・ボザールは官営の学校なので、そりゃもう教科書主義だ。基礎からデッサンを学びながら、かっちり教える方針。一方でアカデミー・シュイスは「絵って自由じゃん! なに描いてもそれが正解なのよ」という、私立感丸出しの開放的な考えだった。
ただ、この時代は前者が画壇的には「正」である。国営の展覧会、サロン・ド・パリが画家にとってのすべて。そこで認められて、はじめて画家として飯が食える、という時代だ。よって画家はみんな「サロンが好む絵」を描かなきゃいけないし、サロンはしっかりしたデッサンの理性的な作品を求めている。そういう時代だった。
だから私立大学には自然と「パンク野郎たち」が集まる。特にアカデミー・シュイスは独特で、面白い。というのも、先生は割とサロン寄りな考えだ。ただ週1くらいしか講義にこない。なんだか「何も経験ないのに野球部の顧問させられてる化学の先生」みたいな感じである。
この状態だと、生徒はどうなるのか。まず「お金はないけど絵を描きたい」という人が多く入学する。そして週1で「かっちり描け」と言われ、「サロンが好む絵じゃなくて自分の表現させろや」っていうパンク精神が芽生える。そして週6で自分の好きな絵を描くようになるわけだ。
それがマネ、モネ、ピサロ、クールベ、コローといったバルビゾン派・印象派の面々。彼らの多くはアカデミー・シュイス出身で、「俺らで新しい時代作ろうぜ」と、忌野清志郎みたいなパンクロック魂を培っていった。
そんな荒くれ者一族にセザンヌも入った。印象派の画家たちにもまれながらたくましく生きていく……かと思われたが、実はいきなり超挫折する。
というのも、官営美大の学生から「なにこの下手くそな絵(笑)」と馬鹿にされるわけだ。それで心がぽっきり折れて、たった半年でパリを去り、地元に帰っている。セザンヌはかなり自尊心強めでガラスのメンタルだったわけだ。
その後、実家に帰って父親の経営する銀行にコネで就職するが、もちろんうまくいかない。そりゃそうだ。画家の夢を割り切れてない、うわの空な社員が銀行員として成功するわけがない。もうなんか、1000フラン紙幣に落書きしちゃいそうだもん。結局、ゾラが言ってた中途半端な生き方に突入するのである。
それで結局、1年で退社。そのままいれば、次の頭取になったかもしれないが、それでも絵を捨てきれなかった。この情熱がセザンヌの素晴らしいところだ。
その後、またパリのアカデミー・シュイスに戻ってきて画家としてリスタートする。モネやルノワールといった印象派の画家たちに出会い、この時期にセザンヌはかなり多くの創作をした。
《タンホイザー序曲》 1869年 ポール・セザンヌ エルミタージュ美術館
画面が暗いのは、クールべやドラクロワなどのロマン主義のを影響を受けているといわれる。ロマン主義とは「自分の描きたい構図を描くぞ〜」という表現主義的な思想だ。
20代後半のセザンヌは、自分をボロクソにしたサロンに出品しまくった。「何が官営だこの野郎」みたいな反骨精神を持って1864年から1869年まで毎年サロンに作品を出した(1863年に出品した説もあるが、記録に残っていない)。
1865年にはピサロに「あんときバカにした奴らの顔を怒りと絶望で真っ赤にしてやりますわ」と宣言している。あの嘲笑が彼にとってはものすごいコンプレックスであり、原動力になった。
ただ、これがまぁすべて落選。なかでも1866年は印象派集団のモネ、ルノワール、クールベたちは入選したなかセザンヌは選ばれなかった。審査員のドービニーは「セザンヌの作品いいと思うけどなぁ」と、他の審査員にプッシュしたが、それでもダメだったのだ。
セザンヌはこれにブチギレる。サロンの委員会に「落選者展(落とした作品だけの展示会)をやってくれ」と手紙を送っている。しかしそれすらも叶わなかった。散々である。
ここまでセザンヌが落とされたのには理由がある。彼は端的に言ってサロンを挑発していた。つまり「サロンが好む絵」の真逆ともいえる作品を送り続けたのだ。当時の印象派集団のなかでも、いちばん尖っていた。
《新聞を読むセザンヌの父》 1866年 ポール・セザンヌ ナショナル・ギャラリー・オブ・アート
《アキレ・エンペレール》 1868年頃 ポール・セザンヌ オルセー美術館
ちなみに1865年のサロンで大賞をとったのが、以下の絵である。
《ナポレオン3世の肖像》 1865年 アレクサンドル・カバネル コンピエーニュ宮殿
こうした「色をきちんと混ぜて、遠近感を表現し、デッサンの均整が取れた絵」がサロンではウケていた。
セザンヌの絵も今見たら「ちゃんとしてるやん」と思うかもしれないが、まず非常に暗い。そして超平面的で色使いもあえて粗くしている。当時としては、ものすごく前衛的だったのだ。
そんなセザンヌの絵は当然評価されないわけである。売れない画家なのでお金もない。三十路にして父親の仕送り10万円くらいで暮らしているという『ザ・ノンフィクション』みたいな生活だった。
印象派展への参加
セザンヌは30代前半で結婚・第一子をもうけている。「おい落ち着け。まずは自分の生活だろ」と諭したくなりますが、この時期に月10万円の仕送りしか収入がない極貧生活のなかで子どもが生まれた。しかも「子どもを養うために、ウケる絵を描こう」とはならない。あくまで自分の表現を追求していく。
そんななか、1874年に「第1回印象派展」が開催された。これは印象派の画家たちが「サロンに認められないなら、自分たちで合同展を開催しようぜ」と意気込んで開催したものだった。セザンヌも作品を出したが、批評家からはボロクソに叩かれた。
印象派展は基本的に画壇から不評だった。しかし斬新さが評価された側面もあったのは確かだ。商業的には成功しなかったが、このイベントのおかげで印象派の面々の知名度は高まっていった。
セザンヌは第2回には出品しなかったが、ピサロの助言もあり第3回には16点の作品を出展。基本的には酷評されたが「セザンヌの絵って新しくて良くない?」みたいな意見も出てきた。
《女性水浴図》 1875-77年 ポール・セザンヌ メトロポリタン美術館
このころから、セザンヌは画壇でちょっとずつ評価されはじめ、『オーヴェルの首吊りの家』は高値で売れている。
《オーヴェルの首吊りの家》 1872-73年 ポール・セザンヌ オルセー美術館
印象派からの脱却とセザンヌの発明
印象派メンバーとしてちょっと注目され始めたセザンヌは、1878年、40歳を目前に控えて「印象派の表現が正しいのだろうか」と疑問を覚えるようになる。
それで結局、印象主義のグループを抜ける。せっかく認められてきたにも関わらず「このままじゃいかん」と思ったそうだ。これがまず「セザンヌの大きな功績」である。
では、はたして何に対して「いかん」と思ったのか。セザンヌはこう述べている。「印象主義はあくまで瞬間を切り取ったものでしかない」と。
印象派が重きを置くのは「光」の表現だ。例えば「桜の木」を描くとしよう。木は毎秒変化し続ける。光の当たり方も違うし、風の当たり方で動きも違う。
端的に言うと、印象派は「その瞬間に見えた桜の木」を写実的に描いた。例えば「2023年3月25日15時24分34秒のフランス・パリ県バルビゾン村1番地2-7-6の庭にある桜の木」みたいな感じ。つまり超具体的な対象物なのである。
ただセザンヌは、だんだんと「その瞬間の桜の木」じゃなく、普遍的で永続的な「桜の木」を描きたくなってきたわけだ。簡単に言うと「誰がいつ見てもわかる桜の木」を描きたかった。
彼はモネのことを「目が素晴らしい画家」と前提したうえで「それは一つの目でしかない」と言っている。セザンヌは「みんなの目」で見た対象物を描きたいのである。
すると、どんどん抽象化しなくちゃいけない。「木」を描くなら、印象派のように見たままを描いてはいけない。見たものを頭のなかで再構成して単純化する必要がある。
それでこの40歳ごろから、だんだんと絵が抽象主義になっていくわけだ。この「印象派からの脱却」がセザンヌの非凡な感覚であり、超すごいところである。誰もやっていない抽象表現に挑むのが、かっこよすぎる。
ただまぁ、持ち上げて落とすみたいで申し訳ないのだが、40歳になっても絵でメシを食えないので、まだ父親の仕送りで生活していた。しかもこのころ、父親に妻子の存在がバレ、仕送りが止まるという大事件が発生。その後はゾラにお金の無心をしている。当時のゾラは既にベストセラー作家だった。
画材を買うお金もない。自分を評価してくれていたタンギー爺さん(ゴッホの絵で有名な方)の店で絵の具を買い、代金がわりに絵を渡していたくらいだ。
《タンギー爺さん》 1887年夏 フィンセント・ファン・ゴッホ ロダン美術館
周りの画家は「売れる絵」を描くように進めている。それでもセザンヌはまだ世の中にない、というか長い歴史でセザンヌしかしていない抽象化の表現をし続けた。
では、具体的に何をやったのか、をもう少し詳しく見ていこう。
セザンヌの「抽象表現」とは
セザンヌがやっていたことをもう少し詳しく紹介する。このころ、彼はあらゆるものを記号に分けている。それによってあらゆるものを抽象化しようとした。
例えば「木の幹は円柱、オレンジ・りんごは球、山は円錐だ」と考えた。いや実際に見たら、もちろん違う。遠近感もあるし、見る角度によって複雑な形をしている。それを超絶デフォルメすることで「その対象物の最も一般的な形」を探っていたのである。
この抽象化(デフォルメ)によって何が起こるのか」というと、まず遠近感がなくなりのぺーっとする。そしてパースももちろん崩れる。あと「りんごは赤だよ!」って感じで色使いが大胆になる。また「1つの絵でも、あらゆる視点から見られるもの」ができていく。
《リンゴとオレンジのある静物》 1895-1900年 ポール・セザンヌ オルセー美術館
例えばこの「りんごとオレンジ」が、すごくわかりやすい。まず超2Dだ。そして、りんごは真っ赤っかだし、オレンジは超だいだいである。
そして左のお皿の面はこっち向いてるのに、中央の盃は真横の構図だ。中央のりんごはこちらから光が当たっているのに、右のリンゴは光っていない。なんか絶妙に気持ち悪い感じがしてこないだろうか。
この「見たものを頭のなかで再構築して、まったく別の形状として描く」というのがセザンヌの大発明だった。彼が天才なのは、この点だ。
と、いうのも1300年代のルネサンス期に建築家・ブルネレスキが遠近法を発明してからというもの、この時代まで画家は「目で見たものをその通りキャンバスに落とし込む」のが基本だった。
もちろん若干の修正はある。たとえば先述した「サロンに受ける絵」を描く場合、「背景の棚の線をちゃんと平行にしよう」とか、美しい構図にするため修正はしている。
ただセザンヌの再構築は根本的にワケが違う。「見たものを頭のなかで再構成して、あえて単純化をする」という考えは、長い美術史のなかでも革命的だったのだ。彼が「近代絵画の父」と呼ばれる所以である。
前衛的表現がほとんど理解されないまま迎える晩年
そんな彼は印象派を抜けるとともにパリから離れ、故郷のルクスで1人、この前衛的な絵を描いていた。サロンには応募を続けていたのだが、当然のように酷評されまくる。
そりゃそうだ。当時の画壇としては、セザンヌの絵は「単純にパースが崩れただけのド下手な作品」なのである。セザンヌが単純化させた背景も知らない。単純に「なんか、これ小学生の絵みたい」っていう感覚だったのだと思う。
ただそんな声を無視して、セザンヌは独自のスタイルを守って作品を描き続けた。なんか仙人みたいで、超かっこいい。
《アヌシー湖》 1896年 ポール・セザンヌ コートールド・ギャラリー
そんなセザンヌが波に乗ってくるのは40代のころだ。47歳の頃に父親が亡くなり、莫大な遺産が入ってくる。これでついに長かった極貧生活が終わった。
絵でいうと、同時期から批評家のなかには、セザンヌの抽象的な絵画を評価する声も上がりはじめる。1890年代、フランスでは古きよきサロン的な表現がだんだんとと見直されていた。つまり新しい表現に寛容になり始めていた時期だ。
《リンゴの籠のある静物》 1890-94年 ポール・セザンヌ シカゴ美術館
そんななか、セザンヌの友だち・ピサロはパリの画商・ヴォザールに「セザンヌの個展やってくれ。絶対今なら評価されるって」と持ちかける。ヴォザールは「やろうぜ」と、企画した。
それでセザンヌは初の個展を開催。ピサロなどの前衛表現に寛容な人は「ハンパねぇ。セザンヌはすごすぎる」って感動したが、ほとんどの批評家からは「セザンヌは何をやっているんだ……(困惑)」みたいな反応だった。
ヴォザールはこの後に「第二回セザンヌ展」を開催。これをきっかけにセザンヌはまたパリに戻って、展覧会に作品を出している。そこでも「一部の人だけが評価する」という現象が起きた。
もうなんかサブカル界隈の深淵で起こる「なんかよくわからない作品が、カルト的に評価される」という感じだ。感度の高い批評家やアーティストがセザンヌ作品の虜になっていった。
その後、1900年代にセザンヌはパリ万博に作品を出している。そしてセザンヌの表現は「ナビ派」といわれる前衛画家集団に愛されまくった。彼らのうちモーリス・ドニは1900年に、セザンヌの静物画を囲んだ「セザンヌ礼賛」という絵を描いている。
《セザンヌ礼賛》 1900年 モーリス・ドニ
ナビ派にとっての師匠はゴーギャンであり、ゴーギャンにとっての先生はセザンヌだった。セザンヌはもうこのころ、前衛画家たちにとって、ちょっと神格化されるレベルまで達していた。
そんな前提的表現に寛容な若い画家たちと親交を持ちながら、セザンヌは1906年に亡くなる。最期は戸外で絵を描いているなか、大雨に打たれて肺炎にかかり、妻子の到着を待たずして亡くなった。
セザンヌ以前、セザンヌ以後というレベルの功績
セザンヌのデフォルメの表現は革命だ。
先述したが、西洋美術史において写実の時代は本当に長い。1300年代のルネサンス期から続いてきた。神話画や宗教画のモチーフなんて、誰も見たことない。知らないのに写実的に描かれる。ロマン主義、印象派はこの世界のアレコレについて、細かく描かれている。
そこに疑問を抱いた感性の鋭さがセザンヌのすごさだ。また新しすぎるので「ぶっちぎりで評価されない絵」になるのに、やり続けるたくましさ。「子どものお絵かきやん」と言われても、貧乏で死ぬほど苦しくても描き続けるすごさ。これがセザンヌ。本当にかっこいい画家だと思う。
このあと、西洋美術はフォービズム(野獣派)や、ナビ派などに分かれ、ピカソ・ブラックがキュビスムをはじめ、キリコが形而上絵画をやり、ダダ、シュルレアリスムへとつながる。明かに西洋美術が抽象表現に移行していくわけだが、そんな近代絵画の遷移の始まりに「セザンヌ」がいるわけだ。
これがセザンヌが「近代絵画の父」といわれている背景である。2023年、いろんな絵画作品を見てきた我々としては「よくわからない絵」に見えるかもしれない。ただ誰もが写実的に描いていた時代を想像してほしい。そんな中で描いたセザンヌの真っ赤なリンゴは、彼の思惑通り、今でも普遍的なモチーフとして存在している。
【今作品を見るなら・・】
展覧会名:印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵
会期:2024年1月27日(土)~ 4月7日(日)
会場:東京都美術館
住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36
公式サイト
- ライター : ジュウ・ショ