「劇的な明暗表現でバロック絵画を進化させた波乱万丈の画家」ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ|今月の画家紹介 vol.14
今回はバロック期のイタリアで活躍した画家・カラヴァッジョを紹介。ダイナミックで写実的な描写と、激しく明暗を分ける「テネブリズム」で、バロック期の芸術を大きく進化させた天才画家だ。
そんな彼の生涯は波乱万丈の一言。今回はカラヴァッジョの生涯を追いつつ、彼のすごさを具体的に紹介する。
バロック期のイタリア人画家。(1571年9月29日 – 1610年7月18日)
ルネサンス期の後に登場し、1593年から1610年にかけてローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた。
幼いころに両親を失った10代
カラヴァッジョは1571年にイタリア・ミラノで生まれた。本名はミケランジェロ・メリージという。父はカラヴァッジョ侯爵家の装飾担当で、母もまた地主の娘という裕福な家庭で誕生した。
カラヴァッジョは5歳までをミラノで過ごすが、当時のミラノでは流行り病の「ペスト」が広がっていた。推測によると、このイタリア地方での流行によっておよそ5万人が亡くなったそうだ。
そこで、一家はカラヴァッジョ地方に引っ越す。ちなみに「カラヴァッジョ」という名前は自身が幼少期を過ごすことになるカラヴァッジョ地方からきている。しかし引っ越しをした翌年に父が他界。また同時期には祖父や叔父もペストで亡くなった。さらにその7年後には母も他界と、名家に生まれたカラヴァッジョは、ペストのため少年期にいくつもの死を経験したのである。
母を亡くした17歳のころにカラヴァッジョは“絵で生計を立てる”ことを決心し、シモーネ・ペテルツァーノのもとで修行を始める。
《自画像》シモーネ・ペテルツァーノ 1589年
ペテルツァーノは、ルネサンス期の巨匠・ティツィアーノの弟子だ。そのためカラヴァッジョも修業期間を終えた後にティツィアーノや、ジョルジョーネといったルネサンス時代の作品を目にしたと考えられている。ちなみに、カラヴァッジョは後に「単にジョルジョーネを模倣しただけだ」と批判されたことがある。まさにルネサンス期の影響を受けているのだろう。
当時のローマの画家たちの間では「マニエリスム絵画」といわれるジャンルが流行っていた。「マニエリスム」とは「ミケランジェロの芸術手法こそが芸術の頂点である」という考えをもとにした絵画だ。
《ガブリエル・デストレとその妹》フォンテーヌブロー派 1594年頃 典型的なマニエリスムの様式で描かれている。
簡単に言うと「ちょっとカッコつけていること」が特徴。静的で、大げさな表現の絵画だ。しかし、カラヴァッジョはこうしたマニエリスムではなく、ドイツの自然主義的な表現に引き込まれていった。
「自然主義」とはあるがままの姿を描く表現を挿す言葉。飾らない姿こそが美しい姿であるという思想をいう。これは装飾が多く大げさな宗教画を描くマニエリスムとは真逆の思想ともいえるものだった。
巨大なパトロンにより、売れっ子の画家へ
カラヴァッジョはその後、21歳のころ(おそらく喧嘩で)ミラノの役人を負傷させてしまい、ほぼ一文無しの状態でローマに逃げる。彼は間違いなく天才の画家だが、ものすごく気性が荒いのも事実だ。よくいうと“画家っぽい画家”となるかもしれない。
その後、ご当時ローマで最高のマニエリストの画家ともいわれていたジュゼッペ・チェーザリのアトリエで働き始めた。チェーザリは当時のローマ教皇のお抱え画家でもあった人物だ。
《自画像》1630年頃
チェーザリの工房では「花や果実」を担当していたこともあり、このころの作品には植物のモチーフがよく登場する。
《果物籠を持つ少年》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1593年-1594年 ボルゲーゼ美術館
《果物籠》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1595年-1596頃 アンブロジアーナ絵画館
《病めるバッカス》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1593年頃 ボルゲーゼ美術館
このころ、カラヴァッジョはまだ20歳である。彼のとんでもないほどの技量の高さがよく分かるだろう。特に人物画は生き生きしていて、今にも動き出しそうだ。このダイナミックさこそ、カラヴァッジョの真骨頂である。
当時は貧乏で、絵のモデルを雇うお金もなかった。《病めるバッカス》は当時のカラヴァッジョ自身がモデルだ。しかし23歳のカラヴァッジョは病気にかかり、チェーザリの工房を解雇されてしまう。ここから独立を決心するわけだが、まったくお金がなく貧乏生活を送っていた。
この時期には力のある画家や、収集家などとも交流があったようだ。だが一方で悪友とも出会っており、ローマの裏社会のことも知ってしまった時期だ。そんななかでも、若いカラヴァッジョはコンスタントに作品を描いた。どれも人間性が伝わってくるような、ダイナミックでユーモラスな絵だ。
《トランプ詐欺師》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1594年頃 キンベル美術館
特に《トランプ詐欺師》は、カラヴァッジョの最初の傑作だ。その理由は2つ。「緻密でレベルの高い写実性」と「日常の風景を描いた自然主義」である。絵から3人の心理状態までが伝わってくるようだ。
「うら若い男が騙されている」という、決して崇高ではないモチーフはマニエリスム全盛のローマでは斬新だった。この作品に目を付けたのが、有名な美術鑑定家である枢機卿のデル・モンテだ。枢機卿とは教皇の最高顧問のことである。彼はカラヴァッジョのパトロンになった。
カラヴァッジョのもとには、デル・モンテの知り合いからの発注が増えていき、カラヴァッジョは若くして富と名声を掴むようになった。カラヴァッジョにとっては、大きな転機となったわけだ。
このころ、日常的な風景のほかに宗教画《悔悛するマグダラのマリア》も描いている。これもマニエリスムの豪華絢爛で理想を追い求めるような絵画ではない。
《悔悛するマグダラのマリア》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1594年–1595年頃 ドーリア・パンフィーリ美術館
むしろマリアが高価な装飾品を打ち捨てて懺悔するさまを描いている。このモチーフは賛否両論を呼んだ。画面の右上には明るい光が差し込んでおり、明暗をはっきりとつけているのが特徴である。
その後もカラヴァッジョのいきおいは止まらない。27歳のころに描いたのが代表作の一つである《ホロフェルネスの首を斬るユーディット》だ。
《ホロフェルネスの首を斬るユーディット》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1598–1599年頃、または1602年 国立古典絵画館
キリスト教をもとにした物語である「ユーディット記」のいち場面だ。ユーディットが敵国の将軍・ホロフェルネスを酔わせて、隙をついて斬首するシーンである。この主題は数々の画家によって描かれたが、カラヴァッジョの一枚は3人の表情が迫真すぎる。今にもホロフェルネスの叫びが聞こえてきそうなほど、リアリティがあり劇的だ。
こうした傑作を20代で次々に描いていたカラヴァッジョだったが、世間的にはまだ有名ではなかった。美術愛好家以外の評価を高めるためには、教会の装飾絵画のように広く大衆が目にする作品が必要だったのだ。
ローマいちの画家になっても、チャレンジを恐れなかった
そんななか、カラヴァッジョにチャンスが訪れる。1599年29歳のころに、デル・モンテの推薦でコンタレッリ礼拝堂の室内装飾画を描くことになるのだ。
ここで描いたのが《聖マタイの殉教》と《聖マタイの召命》。両作品とも縦3m以上、横3m以上の大作である。
《聖マタイの殉教》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1599-1600年頃
《聖マタイの召命》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1599-1600年頃 サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂
この作品では極端なまでの光と闇が効果的に使われている。このコントラストは「テネブリズム」と名付けられた。テネブリズムはその後、レンブラントなども作品に取り入れているが、先駆者であり代表者はカラヴァッジョである。
当時のローマでは、あまりの革新性に否定する意見もあったが大多数が絶賛した。人物の表情や動きを正確に再現している様を見て、「写実技法のレベルの高さはほとんど奇跡だ」との声もあったそうだ。特に若い画家はカラヴァッジョをカリスマとして崇めるようになり、真似してモデルに強い光を当てて絵を描くようになった。しかしカラヴァッジョのレベルにはほど遠く、大量の模写が溢れた。
その後、カラヴァッジョのもとには写実画の依頼が殺到することになる。特にグロテスクな描写が多かった。彼の明暗の「暗」の部分に惹かれた収集家が多かったのかもしれない。
《キリストの捕縛》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1602年頃 アイルランド国立美術館
このころもカラヴァッジョはあくまで自然主義的な視点(あるがまま)で絵を描いている。しかしその正直な絵画作品は、ときとして批判の的にもなった。
特に《ダマスカスへの道での改宗》と《聖アンナと聖母子》の当時のリアクションにその詳細が色濃く出ている。
《ダマスカスへの道での改宗》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1601年
《聖アンナと聖母子》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1605–1606年 ボルゲーゼ美術館
《ダマスカスへの道での改宗》は後にパウロとなるサウロが天啓を受けてキリスト教の教えに目覚めるシーンを描いた1枚だ。右上の光は控えめに描き、パウロよりも馬のほうが大きく描かれている。
こうした描画は決して大げさではなく、あくまでリアルな描写だが、当時は「馬のほうを大きく描くなんて、キリスト教を冒涜している」と非難されることもあったそうだ。
また《聖アンナと聖母子》はもともと大聖堂に飾られていた作品だ。幼児期のイエスが悪の象徴である蛇を踏んでいる。この作品は「下品で信仰心からかけ離れている」と2日で撤去されてしまった。
つまり当時のカラヴァッジョは、ローマいちの売れっ子画家でありながら、かなり攻めた表現にチャレンジしていたのだ。この姿勢がなんともかっこいい画家である。
殺人、指名手配……逃亡の末に船内で亡くなる
しかしカラヴァッジョは、持ち前の気性の粗さによって、作品とは別に不名誉な側面でも有名になっていった。もともと裏社会ともつながりが深かったこともあって、暴力事件を次々と起こしてしまうのだ。裏社会の住人たちの間でも喧嘩っ早いことで有名だった。
そんなカラヴァッジョは、ついに35歳のときに喧嘩の末、若者を殺してしまう。これによりパトロンはすべて離れてしまった。殺害した理由は「テニス賭博の争い」「痴情のもつれ」などと言われているが、正確な理由は分かっていない。
そこでローマで指名手配を受けたカラヴァッジョはナポリに逃亡。当時ナポリではローマの司法権は通用しなかったのだ。
ナポリにて、カラヴァッジョは有力貴族から守られることになり《慈悲の七つの行い》、《キリストの鞭打ち》などの作品を作っている。素晴らしい絵画の技術があることで、指名手配犯なのにナポリでも成功を収めるわけだ。
《慈悲の七つの行い》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1607年 ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコルディア教会
《キリストの鞭打ち》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1607年 カポディモンテ美術館
その後カラヴァッジョは、マルタ騎士団の庇護を求めてマルタに移動。騎士団から迎え入れられ《洗礼者聖ヨハネの斬首》などの作品を描いた。
《洗礼者聖ヨハネの斬首》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1608年 聖ヨハネ大聖堂
しかし喧嘩っ早いカラヴァッジョは、マルタでも問題を起こし騎士に重傷を追わせてしまう。そのため投獄されたが、なんと脱獄に成功。マルタからシチリア・パレルモに移動した。
カラヴァッジョの当時の技術力が分かるエピソードだが、彼はこの逃亡劇の最中、各地で名声を掴み、多額の謝礼を手にしていたそうだ。だが一方で、旅先の画家の作品をバカにして眼の前で破り捨てていたというから、ヤバい奴である。とんでもない天才なのだが、とんでもなく嫌な奴だったわけだ。
当時のカラヴァッジョの祭壇画は、みすぼらしい複数の人が描かれた陰鬱なモチーフが特徴的だ。衣服が浮き出るような筆致で描かれており、確実に画家として進化をしていた。
《聖ルチアの埋葬》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1608年 サンタ・ルチア・アラ・バディア教会
シチリアで敵を作ってしまったカラヴァッジョは敵対者から狙われており、39歳でナポリに戻ることになる。しかし安全だと思っていたナポリで何者かに襲撃され顔に重傷を負ってしまう。
伝記によると、カラヴァッジョはこのころ各地での奇行がアダとなり、イタリア中のどこにも安住の地はなかったそうだ。そこで40歳にしてカラヴァッジョは許しを請うためにマルタの騎士団長やローマ教皇に絵を送るようになった。
マルタの騎士団長には《洗礼者ヨハネの首を持つサロメ》という絵を贈った。
《洗礼者ヨハネの首を持つサロメ》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1609年 ロイヤルコレクションギャラリー
皿に載った生首はカラヴァッジョ自身のものだといわれている。またローマ教皇の甥で罪人の恩赦の権利をもつボルゲーゼには《ゴリアテの首を持つダビデ》を贈る予定だった。
《ゴリアテの首を持つダビデ》ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 1609年-1610年 ボルゲーゼ美術館
この作品の生首もまたカラヴァッジョ自身がモデルと言われている。当時のカラヴァッジョは反省の意を示すために、絵のなかで自身を殺害していたのだ。
そんなか、朗報があった。ローマでカラヴァッジョを支持していた有力者たちが殺人を犯してしまったカラヴァッジョの恩赦を求めていたのだ。1610年ついにカラヴァッジョはローマから許しをもらい、指名手配を解かれることになった。
カラヴァッジョは直々に恩赦を受けるためにナポリからローマに向かう船に乗り込む。しかし、結局はその船のなかで亡くなってしまうのである。死因はよく分かっていないが、熱病とも鉛中毒ともいわれている。病死だったのだ。
指名手配まで受けたが、紙幣の顔になった天才画家
カラヴァッジオの肖像がデザインされていた10万リラ紙幣
カラヴァッジョほど波乱に満ちた人生を送った画家がいるだろうか。
とにかく、とんでもない天才だ。そもそもの技量の高さはもちろん、テネブリズムの発明は画期的だった。これは一過性のブームでなく、今でも用いられる技法のひとつになっている。しかし素行が悪すぎた。イタリアにいられなくなるほどの気性の荒さ。最終的に許しをもらうための船旅で亡くなったのは、何か天罰が下ったのかもしれない。
亡くなった後も、彼の自然主義的な描き方や、強烈なコントラストは、イタリアで長く愛され、カラヴァッジョの絵画の影響を受けた画家はたくさん現れている。ルーベンス、レンブラント、フェルメール……その後に名声を得る画家たちもカラヴァッジョの影響を受けた。
カラヴァッジョを表すキーワードとしては「自然主義」や「暴力性」といったものが上がるだろう。若くして家族を病気で失うという“現実”を突きつけられたカラヴァッジョには“理想”を描くマニエリスムは共感できなかったのかもしれない。だから人やもの、神のありのままを描こうとしたとも考えられる。
また、暴力性は若くして裏社会になじんでいたからかもしれない。または暴力的なモチーフを描き続けて、現実と絵画が融合してしまったのかも……。ともかくカラヴァッジョは当時、革命的なパワーを持った画家だったのだ。
ちなみに、カラヴァッジョはイタリアの10万リラ紙幣に肖像画が採用された。殺人犯の顔が紙幣に印刷されるのは、もちろん異例中の異例だ。しかし、それを上回るほどにカラヴァッジョがイタリア芸術にもたらした功績は大きかったのである。
- Text : ジュウ・ショ
- Edit : Seiko Inomata(QUI)