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「絵に人生のすべてを捧げた、まさに画狂の執念」葛飾北斎|今月の画家紹介 vol.9

Jun 11, 2024
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介する。

勝川春朗、勝春朗、群馬亭、宗理、辰斎、辰政、雷震、雷信、雷斗、戴斗、為一、画狂人、卍老人、不染居……。これらの単語を見て、ピンとくる日本画好きな方もいるだろう。これはすべて葛飾北斎の画号(芸名)だ。実は「葛飾北斎」と名乗っていたのは5年間くらいである。

「好奇心旺盛かつ集中力の鬼」である人生から、彼は「奇人じゃん」とネタにされることもある。しかし、創作物・仕事に対する熱量から学ぶことは、もちろん多い。そこで今回は葛飾北斎の人生、エピソードを振り返りつつ「彼の何がすごいか」を解説していこう。

「絵に人生のすべてを捧げた、まさに画狂の執念」葛飾北斎|今月の画家紹介 vol.9

Jun 11, 2024 - ART/DESIGN
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介する。

勝川春朗、勝春朗、群馬亭、宗理、辰斎、辰政、雷震、雷信、雷斗、戴斗、為一、画狂人、卍老人、不染居……。これらの単語を見て、ピンとくる日本画好きな方もいるだろう。これはすべて葛飾北斎の画号(芸名)だ。実は「葛飾北斎」と名乗っていたのは5年間くらいである。

「好奇心旺盛かつ集中力の鬼」である人生から、彼は「奇人じゃん」とネタにされることもある。しかし、創作物・仕事に対する熱量から学ぶことは、もちろん多い。そこで今回は葛飾北斎の人生、エピソードを振り返りつつ「彼の何がすごいか」を解説していこう。
Profile
葛飾 北斎(かつしか・ほくさい)

江戸時代後期の浮世絵師。(1760年10月31日 – 1849年5月10日)
人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表した。

浮世絵師としての基礎を学んだ春朗時代

いきなりで恐縮だが、葛飾北斎の出生は明らかにされておらず、さまざまな説がある。ここではその一つを例に紹介していこう。

葛飾北斎(本名・中島鉄蔵)は1760年に生まれ、鏡を作る「鏡磨師」という仕事をしていた中島伊勢の養子になる。しかし中島家は本家の息子に後継を決めたため、北斎は家を出て、貸本屋の雑用などをしていた。

このとき「貸本屋」で働いたことがその後のキャリアにつながったともいわれている。自然と挿絵を見ることになったし、読書により、寺子屋に行かずして字を読めるようになった。

何より「貸本」が庶民の文化だったということが重要だ。幕府・武士というより、農民や商人などの庶民的なカルチャーに興味を抱くことになるわけだ。そんな北斎は14、5~19歳まで木版画の版下彫りで生計を立てていたようだ。

その後、20歳で当時すでに有名浮世絵師だった勝川春章に弟子入り。ここから35歳までは勝川春朗、叢春朗などの画号で勝川一門として浮世絵を描いた。以下の作品は20歳のころに描いた最初期の作品の一つだ。

《四代目岩井半四郎 かしく》 1779年 春朗時代の錦絵

この時期に葛飾北斎は結婚し、娘を設けている。この娘がのちに有名浮世絵師となり、長年にわたって北斎の生活を支える葛飾応為(かつしか・おうい)だ。

ちなみに北斎が娘を「オーイ」と呼んだので、画号を「応為」にしたという説がある。北斎に似てかなりおおらかな性格だった。応為の作品も、西洋美術の影響を受けていておもしろいので、ぜひ見てほしい。

《吉原格子先之図》 1818~1860年頃 年葛飾応為

この時期の北斎は、基本的に勝川一門で浮世絵の基礎を学んでいた。しかし一方で、好奇心ゆえに、中国画をはじめ、浮世絵以外の表現も模索していた。

《市川蝦蔵の山賊実は文覚上人》 1791年 春朗画

独立し、オリジナリティを高めていく「宗理時代」

そんな北斎は1795年、36歳で勝川一門を抜ける。一説によると、中国画を学ぶため狩野派の教えを受けたことで破門されたらしい。北斎は琳派に加わり、「三代目 俵屋宗理」を襲名した。1795~1804年までの期間は「宗理時代」といわれる。

しかし実は「宗理」と名乗っていたのは4年間だけだった。というのも、当時困窮を極めていた北斎は画号を門人に売ってしまったのだ。今でいうと、SNSアカウントの売買に近い。

ここから北斎は独立し、さまざまなモチーフを描くようになる。特に美人画は「宗理型」と呼ばれるほど、北斎のキャラクターを確立していった。

《二美人図》 1806〜1813年頃 葛飾北斎

北斎がこの時期に名声を高められたのは「勝川」→「琳派」→独立、という派閥にとらわれないキャリアを歩んだこともある。これにより、さまざまな派閥の画風がミックスされたことで、唯一無二の画風を確立した。

このころには護国寺で120畳の達磨半身像をライブペインティングで描いており、かなり注目度の高いイベントにも呼ばれるほど名が売れていた。

その後、北斎は1805~1809年まで「葛飾北斎」と名乗る。この時期は「宗理風」の繊細な画風は鳴りを潜め、かなり大胆な構図で描くようになる。

曲亭馬琴《椿説弓張月》 1807年 での北斎による挿絵

この時期は民衆のトレンドが狂歌(滑稽な短歌)から、中国由来の「読本」に移り変わっていたからだ。北斎の画風も自然と中国風になっていった。北斎は『南総里見八犬伝』で有名な曲亭馬琴と一緒に、読本を作っていた。村上春樹といえば安西水丸みたいな感じに似ている。

結局、北斎と馬琴は喧嘩別れしてしまうのだが、この二人の貢献もあり、読本は一大ブームとなったわけだ。

『北斎漫画』など絵手本を描いた「戴斗時代」

その後1810年、五十路の北斎は、はじめての木版絵手本『己痴羣夢多字画尽(おのがばかむらむだじえづくし)』をリリースする。ここから1819年までの50代は「戴斗(たいと)」という画号を用いたので「戴斗時代」といわれる。

絵手本は「絵の教本」のことだ。北斎はいろんなモチーフ、ポージングについて本にまとめることで、自分の画風を広めたかったし、門人(アシスタント)にいちいち指示を出す手間を省きたかったわけである。

この時期に描かれた代表作が「北斎漫画」だ。今でも書店で購入できるので、ぜひ探してみてほしい。今見てもかなり面白い。

『北斎漫画』 八編(1818年出版)15丁より、座頭と瞽女(ごぜ) 視力に障害を持って渡世する人々のさまざまな顔模様を描いてみせた

北斎は、同時期の浮世絵師・北尾政美が発明した「略画」をヒントに「漫画」という言葉を考えた。「漫(そぞ)ろな絵」とあるように「なんとなく描いた絵」という定義をしたわけだ。

マンガの元祖は「鳥獣戯画」とよくいわれるが、平安時代から江戸時代にかけて「漫画」という言葉はなかった。嗚呼絵(おこえ)とか略画とか呼ばれていたが、北斎によって「漫画」という単語が生み出されて、大正・明治時代に固定されていった。そのため海外では北斎のことを「First Manga Master」と呼ぶこともある。

北斎漫画は売れに売れ、この後北斎が亡くなったあとまで15回にわたって重版されることになる。ちなみにこれを見て、略画の北尾は「北斎はパクりしかしない。パクり専門の画家だ!」と北斎を非難している。

また、この時期に北斎は名古屋でも120畳程度のだるまをライブペインティングで描いている。これが大好評だったらしく、北斎は「だるま先生」を略して「だるせん」と呼ばれるようになった。非常に現代っぽい略し方でおもしろい。

このことも『北斎漫画』の売れ行きに拍車をかけた。絵手本が売れたので、世間から「先生」と呼ばれるようになった側面もあるだろう。

『富嶽三十六景』の制作から「画狂老人卍」の晩年へ

さて、こうした基礎を学び、オリジナリティを見出し、先生と呼ばれるようになった北斎は1820年、還暦を迎えるあたりから「為一(いいつ)」と名乗り始める。1820年から1833年あたりは「為一時代」と呼ばれる。

為一時代の前期は狂歌の挿絵や、発注を受けて作品を描いていた。なかでも個人的に見てほしいのはドイツの学者・シーボルトの発注で描いた『遊女と禿』だ。

《遊女と禿》 1826年 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの注文で描いた作品

このようにシーボルトの発注ということで、陰影の付け方など、西洋の画風を意識している。北斎のすごいのは、この引き出しの多さだ。浮世絵ライクな作品だけでなく、漫画、中国画、西洋画など、多種多様な手法で作品を描けるのが、他の浮世絵師との大きな違いである。

そして為一時代の後期に生まれたのが、北斎の最大の代表作『冨嶽三十六景』だ。1カ所目の「神奈川沖浪裏」から46カ所目の「諸人登山」で構成された富士図版画集となっている。

この作品では輸入化学染料のプルシアン・ブルー(通称「ベロ藍」)が使われた。ベロ藍による透明感のある青色は「ホクサイブルー」「ヒロシゲブルー(歌川広重)」と呼ばれ、西洋の画家たちに大きな影響を与えることになる。

《冨嶽三十六景》 「神奈川沖浪裏」 1830年頃〜 葛飾北斎

また個人的には一つ目の「神奈川沖浪裏」の波の躍動感は、見るたびに感嘆してしまう。これまでにはない飛沫の描き方は、彫刻師「波の伊八」の作品をヒントにしたともいわれる。

しかしこの色使い、構図、ダイナミックさ……これまで葛飾北斎が培ってきたスキルが詰まった作品だ。間違いなく江戸時代の日本画だが、いわゆる「浮世絵」チックではない。『冨嶽三十六景』は大好評で『北斎漫画』に続いて、ヒット作となった。

その後1834年、75歳となった北斎は『富嶽百景』をリリース。ここで使われた画号が、まさかの「画狂老人卍」だ。他の浮世絵師が名乗る名前とはまったく違うユーモラスさ。これも葛飾北斎の魅力であり、すごいところである。

そんな北斎の晩期は、天保の大飢饉や火災に見舞われながらも、最後まで絵を描き続けた。遺作となったのは『富士越龍図』だ。

《富士越龍図》 1849年 葛飾北斎

そんな北斎は最後に「あと10年……いやあと5年生きていれば、私は本物の絵描きになれるだろう」と言い残して亡くなったそうだ。

この言葉にすごみを感じるのは、葛飾北斎が誰からも認められるほどの絵描きだったからだ。北斎自身だけが、まだ自分に満足していなかったわけである。彼は最後までハングリーに絵を追求し続けた。

「絵」のことしか考えていなかった画狂の人生

葛飾北斎という人物には、いろんな魅力がある。

まず好奇心旺盛だ。またユーモラスである。フットワークが軽く、自分の画風に固執しないのもすごい。しかし何よりの魅力は「絵に対して本気で挑み続けたこと」だ。何よりも絵を大事にしていたので、葛飾北斎はここまで高い評価を受けたが、ずっと貧乏だった。

それは常に絵に集中していたため、画代を確かめもせず受け取っていたり、出前などの支払いも画代の入った袋をそのまま投げ渡したりしていたからだ。

北斎はこうした奇人的なエピソードも多い。例えば冒頭で紹介した通り、画号を30回以上変えた。ちなみに春画(アダルト本)を描く際は「鉄棒ぬらぬら」と名乗っていた。令和でも通用しそうな感性である。

また生涯で90回以上も転居している。これも絵を描くことのみに集中し、片付けることができず、部屋が散らかるたびに引っ越していたからだ。

北斎は基本的に年中、布団を被って絵を描いていた。特に9月から4月までは、常に尿瓶を横において、こたつから出ずに制作していたそうだ。また衣服は常に破れたり汚れたりしており、外で人に話しかけられないため、常に念仏を唱えながら歩いていた。

これほどまでに「絵」のことしか考えられないのは、まさに「画狂」だ。そんな生活を想像しながら作品を見ると、北斎の執念を感じ取れるだろう。

 

【作品を見るなら・・】
すみだ北斎美術館
住所:〒130-0014 東京都墨田区亀沢2丁目7番2号
開館時間:9:30~17:30(入館は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜日(月曜が祝日または振替休日の場合はその翌平日)、年末年始(12月29日~1月1日)
上記以外にも臨時休館する場合がございます。
公式サイト:https://hokusai-museum.jp/

  • Text : ジュウ・ショ
  • Edit : Seiko Inomata(QUI)

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