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「衝動のままに生き続けた“炎の人”」フィンセント・ファン・ゴッホ|今月の画家紹介 vol.5

Jan 26, 2024
難解な解説が多く、とっつきづらいアートの世界。有名な画家の名前は知っているけど、何がすごいのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」を、アーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

第5回はフィンセント・ファン・ゴッホについて紹介。完全に私の経験則だが、あまり美術に詳しくない方に「画家といえば?」と聞くと70%くらいの確率で「えーと、ゴッホ!」と返ってくる。それほどまでに日本で広く知られている「ザ・画家」だ。

今回は「ゴッホは何がすごかったのか」について、彼の嵐のような人生を深掘りながら紹介していく。「作品への激しい情熱」と「精神的な危うさ」を持ち合わせた「いわゆる画家像」は、まさにゴッホによって生まれたのかもしれない。

「衝動のままに生き続けた“炎の人”」フィンセント・ファン・ゴッホ|今月の画家紹介 vol.5

Jan 26, 2024 - ART/DESIGN
難解な解説が多く、とっつきづらいアートの世界。有名な画家の名前は知っているけど、何がすごいのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」を、アーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

第5回はフィンセント・ファン・ゴッホについて紹介。完全に私の経験則だが、あまり美術に詳しくない方に「画家といえば?」と聞くと70%くらいの確率で「えーと、ゴッホ!」と返ってくる。それほどまでに日本で広く知られている「ザ・画家」だ。

今回は「ゴッホは何がすごかったのか」について、彼の嵐のような人生を深掘りながら紹介していく。「作品への激しい情熱」と「精神的な危うさ」を持ち合わせた「いわゆる画家像」は、まさにゴッホによって生まれたのかもしれない。

Profile
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ

オランダのポスト印象派の画家。(1853年3月30日 – 1890年7月29日)

主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代とサン=レミでの療養時代に制作された。

感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。

画商、伝道師を志していた10~20代

ゴッホは1853年3月、オランダのズンデルト村で生まれた。ゴッホの故郷はとても自然が豊かで、幼いころから弟のテオドルス(通称:テオ)と一緒に森を散策していたのだそう。親に黙って遠出をしては昆虫や鳥を観察するような自由な子どもだった。

そのうえ衝動性が強く、鳥の巣を見つけては収集して部屋に持ち帰り室内は鳥の巣だらけになっていたらしい。そんな我が子に、家族は「あれ、この子ちょっと変かも……」と思っていた。
そんな好奇心旺盛なゴッホ少年は、幼いころから絵の才能があり、お父さんの誕生日に作品を作っている。

『農場の家と納屋』1864年2月、素描

よく森に出ていたこともあり、目が養われていたのかもしれない。小学生にしては、写実的な立体表現で、とても上手だ。
そんな自由奔放なゴッホ少年は、かなり辛い出来事を経験している。

彼はある日、森で墓を目にした。そこに刻まれた名前が「フィンセント・ファン・ゴッホ」だったのである。自分のお墓を見てしまったゴッホ少年は、当然「自分は死んでいるのか」と焦りまくったし、めちゃめちゃ傷ついた。

実はゴッホが生まれるちょうど1年前に、死産した兄のお墓だった。両親は死んだ兄の生まれ変わりとしてゴッホにも同じ名前をつけたのだという。

いま考えたら「死んだ兄と同じ名前をつけるなんて!ゴッホかわいそう」と思う方も多いかもしれない。しかし「フィンセント」はゴッホ一族でよく付けられる名であり、ゴッホの伯父も同じ名前だ。

また、ゴッホの父と弟の名前は同じテオドルス。当時、一族内で同じ名前をつけるのは、割とよくあることだったのかもしれない。

それにしても当時、自分の名前の墓を見つけたゴッホは、あまりにかわいそうだ。アイデンティティを養う少年期にこうした出来事に見舞われたのは、今後の人格を左右するくらいのインパクトがあるだろう。

ちなみに、後年になってサルバドール・ダリも同じような辛い出来事を経験している。ダリの場合、親が死産した兄の墓まで案内して「あなたはお兄さんの生まれ変わりよ」と、あまりにダイレクトに告げられたらしい。ちょっと、とんでもない両親である。

この後、ゴッホは13歳から高校に進学するが、卒業間近で中退している。さらに後年、ゴッホは弟・テオへの手紙のなかで「僕の若いころはずっと陰鬱だった」と回想している。お墓の一件がどこまで影響しているかは分からないが、彼の10代の時期はかなり辛い時期だった。

そんなゴッホは16歳で就職をする。最初の就職先は各地に支店を持つグーピル画廊。そのハーグ支店の経営者が伯父だったのでコネで入社できた。絵を仕入れて売るのが仕事だ。

ゴッホはこのハーグ支店に4年勤めたが、上司・会社との関係はあまり良くなかったそうだ。そのうえ家族とも上手くいっておらず、彼は孤独感を深めていくことになる。この「孤独感」という言葉がゴッホのキーワードの一つだ。

当時、ゴッホは弟のテオと手紙のやり取りを始めたり、娼館(売春宿)に通ったりしていた。孤独のなかで人との関わりを求めていたわけである。

20歳でロンドン支店に異動。当時、ゴッホは下宿先で大恋愛をするが、見事にフラれてしまう。傷心中のゴッホを救ったのはキリスト教だった。このころから牧師の説教を聞きにいったり、宗教の本を読んだりしている。

さらに2年後にはパリ本店に異動。キリストの教えを知るなかで、商売っ気の強いグーピル商会に疑問を抱き始めた。最後は休暇申請を却下されたのにも関わらず、無断で会社を休み、22歳で解雇されている。

さて、リストラをくらったゴッホの情熱の矛先は当然キリスト教だ。彼は解雇後に実家に帰って、家族に「聖職者になりたいんだよ」と告白する。父親は反対したものの「ちゃんと数年間の勉強に耐えられるならいいよ」と承諾した。

しかし、いざ学習を始めると聖書以外の教科も勉強しなければいけない。ゴッホは見事に挫折。受験せずに伝道師養成学校に入学し、ほぼ独学に近い形で伝道師の活動を始めた。

ゴッホは意気揚々と25歳ごろから探鉱者の町、ベルギー・ボリナージュ地方に移り住み、労働者にキリストの教えを説きはじめる。周りの人に合わせ、ろくに食事も取らず、みすぼらしい衣服を着用するようになった。

この伝道のやり方を知った教会は、ゴッホの仮免許を取り消したうえで給料も打ち切ったのである。教え方がちょっと独学すぎたわけだ。伝道師には威厳が必要だったのである。

この時期のゴッホの生き方は、彼の性格を知るうえですごく分かりやすい。

彼の根底にはぬぐい切れない孤独感がある。人に拒絶されたときにとんでもなく落ち込む。また「好きなことには打ち込めるが、興味のないことはとことん苦手」なのだ。めちゃめちゃ極端なのである。この生き方こそ、ゴッホが「炎の人」と呼ばれるゆえんだと思う。

 

26歳から本格的に絵を描き始める

こうした伝道師の道も断たれたゴッホが打ち込み始めたのが「絵」だった。

彼は伝道師をクビになってからベルギーで約半年間、デッサン・スケッチをしながら放浪生活を送り、1880年ごろから本格的に画家を志す。このころ、弟のテオに「俺にはやっぱり絵しかない!」という旨の手紙を送っている。

また、このころからテオによる仕送りが始まる。序盤に記載しておくべき内容だが、ゴッホは生前に絵が1枚しか売れていない(数枚という説もある)。基本的にはこの後、テオの仕送りによって生活をしている。もはや、テオのほうがすごいかもしれない。

1880年、彼はまず絵を学ぶためにベルギー・ブリュッセルに向かい、短期間のレッスンを受けた。
しかしすぐに生活費が尽きたため、翌年には実家に戻る。帰省の最中、彼は従姉・ケーのことが好きになり、二度目の大失恋をする。

この時ゴッホはランプに手をかざした状態で、牧師である伯父(ケーの父親)に「この炎に手をかざしている間だけ合わせてくれ」と頼み込んだそうだ。しかし炎を吹き消されて「ぜったいに無理」と言い放たれるという、かなりむなしいフラれ方をした。

この事件により「牧師には血も涙もないのか」と感じたゴッホは、牧師である父親と大喧嘩をして家出。1882年にオランダ・ハーグに引っ越して写実主義の画家・モーヴにお金を出してもらって絵を練習するようになる。

つまり当時、ゴッホはテオとモーヴからの援助金で生活をしていたが、あろうことかモデルとして使っていた娼婦のシーンに資金援助をしていた。こんなにお金がないのに、パパ活のパパ側だったわけだ。これを知ったモーヴは、一切ゴッホと連絡を取らなくなった。そりゃそうだ。

『悲しみ』1882年4月、ハーグ。素描(黒チョーク)

またゴッホはハーグの画家とも交流があった。しかし繊細な性格ゆえ、他の画家が自分の作品にアドバイスをするのも許せなかった。例えば「ゴッホさん、ちょっとだけ、ここを変えてみたら?」と指摘されると「お前に何が分かるんだ!」という具合にキレるので、ハーグの画家はみんなゴッホから離れていき、ゴッホはまた寂しくて病んでしまう。

そのうえ、テオからの仕送りが遅れると「絵のモデルを雇えねえだろうが!」などと、金の無心をしている。このとき三十路手前のゴッホは、周りがまったく見えていなかった。

と、割とダメ人間なゴッホだが、それほどまでに絵画への熱い思いがあったともいえる。この時期には、よく農民の生活を描いている。

『泥炭湿原で働く女たち』1883年10月、ニーウ・アムステルダム

こののち、ゴッホはオランダ・ニューネンの実家に帰り、絵を描くようになった。この時期に四度目の失恋をしている。今回は相手の女性とも恋仲になったが、双方の家族から猛反対され、結局相手側の女性は自殺未遂をするまで発展した。

またこの時期、ゴッホの最初の本格的作品である『ジャガイモを食べる人々』を完成させる。ゴッホはもともと少し暗い画面の作品が好きだったので、すごく満足していた。しかし、弟であり画商のテオは「もっとモネやルノワールのような印象派の明るい画風で描きなよ」とアドバイスを送っていたそうだ。

『ジャガイモを食べる人々』1885年4月-5月、ニューネン

ゴッホの人生はずっと孤独感との戦いだが、特にこの時期は悲惨だ。まず父親を亡くしている。また、モデルにしていた女性が妊娠したことでゴッホが疑われる事件があり、実質的に村八分となった。こうしてゴッホはまた孤独感を強めていくのである。

『開かれた聖書の静物画(イタリア語版)』1885年10月、ニューネン

アルルでの黄金期

1886年頃にパリで撮影されたファン・ゴッホと考えられている肖像写真

結局、村八分を受けて実家近くに住めなくなったため、ゴッホは32歳のときにベルギーに戻り、人物画やデッサンを習い始めた。この時期にジャポニスムにも興味をもち、たくさんの浮世絵を買って部屋に飾っている。

テオの仕送りは続いていたが、画材とモデルにつぎ込んだ。そのため、この時期からゴッホは衰弱し、次々に歯が欠けるほどだったという。

翌年からは貧窮に耐え切れず、パリで画商をしているテオの部屋に居候を始めた。この時期にパリの画壇では最後の印象派展が開催され、ゴッホも足を運んでいる。「新印象派」とされるスーラやシニャックなどの作品を見たらしく、この時期から画風も明るくなっていった。

『タンギー爺さん』1887年秋、パリ

また日本画も買い続けており、模写もしている。

『おいらん(栄泉を模して)』1887年10月-11月、パリ

『ジャポネズリー:梅の開花(広重を模して)』1887年10月-11月、パリ

しかしテオとの同居期間は常に兄弟げんかをしており、テオもさすがに我慢できず、妹に「早く出ていかないかな」と愚痴ったりしていた。それでも仕送りを続けたテオは本当に偉い。

ゴッホはテオ経由でロートレックやベルナールといった新進気鋭の画家たちと交流するようになったが、テオが結婚することもあり、フランス・アルルに引っ越した。

『アルルの跳ね橋』1888年3月、アルル

このアルルでの時代がゴッホの最盛期といってもいいだろう。彼はアルルで「画家の協同組合」を作りたかったのだ。

当初の目的ではモネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、スーラ、ゴーギャンなどの画家たちが絵の代金を分配して、みんなで高め合う共同体を作ろうと考えていたのだそうだ。売れてない立場で発案したのが、めちゃめちゃ図々しくてゴッホらしい。

彼はアルルの景色を「日本版画のように美しい」と例えている。結局、この共同体は成立しなかったが、ゴッホはアルルで果樹園やカフェ、星月夜などの作品を描いた。

『夜のカフェテラス』1888年9月、アルル

『ローヌ川の星月夜(英語版)』1888年9月、アルル

『アルルの寝室』1888年10月、アルル

また有名な『ひまわり』を描いたのもこの時期だ。ゴッホはゴーギャンが貧乏生活をしていることを知り「俺、テオの仕送りあるし二人で暮らそう」と持ち掛けている。ゴーギャンがその条件を飲んで、引っ越してくることを知り「部屋をひまわりでいっぱいにしよう!」と意気込んで、連作としてひまわりを描いた。

『ひまわり』1888年8月、アルル

ちなみにこの時期にもテオに「ひまわりたくさん描きたいから、早くお金振り込んで!」と催促している。ゴッホはいろいろすごい人だ。

 

ゴーギャンとの共同生活と耳切り事件

ゴーギャンによる、ひまわりを描くファン・ゴッホの肖像(1888年11月)

ゴーギャンは予定通りには到着せず、遅れてやってきた。彼とゴッホが一緒に暮らし始めると、二人は共に散策を楽しみながら絵を描いたり、ぶどう畑を訪れたと充実した時間を過ごす。

しかし、次第に二人の間で頻繁に衝突するようになる。

というのも、二人の芸術に対する見解が根本的に異なっていたのだ。ゴッホは鮮やかな色彩感覚を持ちながらも、基本的には目にしたものをリアルに描くスタイル。対照的に、ゴーギャンは感覚を重視し、目にした景色を自身の内面のフィルタを通して表現するスタイルだ。

例えば同じぶどう畑を描いても、こんなに違う。上がゴッホで下がゴーギャンの作品だ。

『赤い葡萄畑』1888年11月、アルル

ゴーギャン『ぶどうの収穫――人間の悲哀』1888年11月

ゴッホは尊敬するゴーギャンの技術を学ぼうと努めたが、ちょいちょい批判的だった。例えば「その色使いは何だ?平坦すぎるぞ」といった具合に、先輩であるプロの画家に対しても遠慮なく意見を言うことがあった。

これ、作品を作ったことがある方ならばわかると思うが、めちゃめちゃ恥ずかしい。もちろんゴーギャンは意図的に抽象的に描いたわけだし、それが彼の魅力の一部でもあった。だからこの指摘は、正直かなり屈辱的だったわけだ。

例えるなら米津玄師に対して「ミステリアスな雰囲気やめろ。まず前髪切れよ」と言うようなものである。言われた側は、めちゃめちゃ恥ずかしいわけだ。

しかし、ゴッホは絵画に関して、すごくプライドが高い。他人のスタイルの違いを受け入れられないのだ。ゴッホの「画家としての自分の信念を曲げない」という強い意志を感じるエピソードである。

結局、ゴーギャンとゴッホの間で大きな争いが起こる。ゴーギャンは「もう無理。精神的にもたない」とアルルを去ることにした。去り際に「お前の自画像の耳、変な形してるな」とちょっと反撃して、家を出ていった。

ポール・ゴーギャン

これが有名な「ゴッホ耳切り事件」へとつながる。ゴッホはカミソリで自らの耳を切り落とし、それをゴーギャンと共通の知人である女性に「大切にとっておいてね」と渡したのだ。あまりにショッキング過ぎる。

当然ゴッホは翌朝、警察に保護されて病院に搬送された。この事件は当時の新聞で「ヤバい男が現る!」と報じられるほどの騒動となった。

この事件は耳を切った、までがフューチャーされがちだが、個人的にゴッホがすごいのはここからだと思う。彼は2週間ほどで一時帰宅してアルルの家に戻り、鏡を見ながら『耳のない自画像』を2枚描くのである。

『包帯をしてパイプをくわえた自画像』1889年1月、アルル

画家の矜持というか、気迫を感じるエピソードだ。「今の感情を残しておかねば」と思ったのかもしれない。

 

精神に不調をきたしながらも絵を描き続けた晩年期

ゴッホはこの後、かなり精神的に追いつめられ、幻覚や被害妄想に襲われるようになった。しかも過度に飲酒をしていた。

この様子を受けて近隣住民は「ゴッホを精神病院に入れてくれ。怖すぎる!」という嘆願書を市長に提出。ゴッホはアルルの精神病院に入院することになる。しかもここでは絵を描くことを禁じられた。

その後、アルルから近い、サン=レミの療養所に移ってから、また絵を描き始める。この時期に名作『星月夜』を制作した。

『星月夜』1889年6月、サン=レミ

また自画像や風景画も多く描いている。この時期の作品はただ対象を写実的に描くのではなく、周辺に版画のような”うねり”が表現されている。自己のフィルタを通して、モチーフを再構築していることが伝わる画風だ。

1889年9月、サン=レミ

『糸杉と星の見える道』1890年5月、サン=レミ

ゴッホ自身が「正確さではなく、もっと自由に自然の純粋な姿を表現したい」と語っているように、この時期は象徴的な表現が特徴となっている。弟のテオはそんな兄に対して「象徴的に描くと脳を使い過ぎるので心配だ」と考えていた。

実際、このころのゴッホは定期的にくる発作に悩んでおり、絵の具や灯油を飲もうとするほど錯乱をしていたそうだ。

しかしサン=レミで体調も回復し、パリのテオ宅で数日間過ごしたのちに、フランス・オーヴェル農村に引っ越し。テオ一家も兄の元を訪れたが、ゴッホはこの期間、テオに「寂しいから一家でこっちに引っ越してきてくれ」という旨の手紙を送っている。

『カラスのいる麦畑』1890年7月、オーヴェル

そんななか、1890年7月、旅館に帰ってきたゴッホを見た主人は驚いた。ゴッホは銃で自らの左胸下を撃っていたのだ。ゴッホはそのまま37歳で息を引き取ることになった。最期はテオと会話を交わしたそうで「このまま死ねたらいい」と語っていたのだそうだ。

そして、その2カ月後にテオは体調を崩し、翌年に後を追うように亡くなった。なお、ゴッホの死因については自殺が有力だが、他殺の可能性も残されている。

 

「これぞ画家」という波乱万丈な人生がすごい

1887年暮~88年初

繰り返すが、ゴッホは生前ほとんど評価されなかった。絵も1枚しか売れていない。27~37歳までの10年しか活動していないので、評価されるに至らなかった、という見方もある。

ではなぜここまで高名な画家になったのか。もちろん作品自体のインパクトは大きかった。実際、死の直後には評価され始めている。特にサン=レミ時代のうねりのある表現は、ほぼ同年代のムンクやルドンが活躍していた「象徴主義」に近い部分がある。

この時代には産業革命が起こり「目に見える者がすべて」という物質主義が発達した。そのカウンターとして起こった象徴主義は「目に見えないもの」を作品に落とし込んでいる。ゴッホのうねりには「悲しみ」「怒り」「虚しさ」など、象徴的な表現が、厚塗りの迫力をもって描かれている。

1887年暮~88年初

しかしなんといっても「生き様」がゴッホの地名度を高めたのは間違いないだろう。特に1893年、親友だったベルナールがゴッホの書簡の一部を公表してからは「なんだこのとんでもない人生を送った画家は!」と話題になった。

1910年代にはベルナールやテオの妻・ヨーが書簡集を出版、その後はゴッホの伝記がたくさん書籍化され、熱心に研究された。極めつけは1934年にアメリカでベストセラーとなった伝記小説「炎の人ゴッホ」だ。これにより、ゴッホは世界的に有名になった。

私はゴッホという人物から「画家のパブリックイメージ」が定着したんじゃないかと思っている。「寂しがり屋で繊細」「自尊心が高い」「ときに感情的になる」「好きなことには熱中できるが、興味のないことはさっぱり」と、一見してめんどくさい存在だ。社会には、まず馴染めない。

しかし絵に対しては、常軌を逸するほどの情熱を持っている。自らの命をすり減らしてまで向き合う。

常人は耳を落として退院したら、いったん休む。画商である弟から「もっとこうしたほうが売れるよ」と言われたら従う。ここまで、自分の描きたい絵にわがままにはなれない。

SNSが発達した今は「売れること」「フォロワーを増やすこと」がゴールのようになった。それは間違いなく立派だ。しかしゴッホのように自分にわがままに「自分の理想の作品」を泥臭く追うことにもロマンがある。

そしてそんなロマンの先にできた作品には力がある。ゴッホの作品を見るたびに、燃えたぎるエネルギーが伝わってくるのである。

 

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  • ライター : ジュウ・ショ

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