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「ポスター美術の世界で輝いたアール・ヌーヴォーの代表」アルフォンス・ミュシャ|今月の画家紹介 vol.7

Apr 9, 2024
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

第7回は、19世紀を代表するアール・ヌーヴォーの画家、アルフォンス・ミュシャ。花や星などの流麗な装飾とともに美しい女性を描いたポスター美術は、今でも多くの人に愛されている。

ミュシャの絵の美しさ・可愛らしさは、パッと見て分かるだろう。しかし、なぜ彼が評価されたのか。当時彼がどのような評価を受けていたのかなどは意外と知られていない。今回はミュシャについて「いったい何がすごかったのか」について紹介したい。

「ポスター美術の世界で輝いたアール・ヌーヴォーの代表」アルフォンス・ミュシャ|今月の画家紹介 vol.7

Apr 9, 2024 - ART/DESIGN
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

第7回は、19世紀を代表するアール・ヌーヴォーの画家、アルフォンス・ミュシャ。花や星などの流麗な装飾とともに美しい女性を描いたポスター美術は、今でも多くの人に愛されている。

ミュシャの絵の美しさ・可愛らしさは、パッと見て分かるだろう。しかし、なぜ彼が評価されたのか。当時彼がどのような評価を受けていたのかなどは意外と知られていない。今回はミュシャについて「いったい何がすごかったのか」について紹介したい。
Profile
アルフォンス・ミュシャ

チェコ出身でフランスなどで活躍したグラフィックデザイナー、イラストレーター、画家。(1860年7月24日 – 1939年7月14日)
アール・ヌーヴォーを代表する画家で、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。イラストレーションとデザインの代表作として『ジスモンダ』『黄道十二宮』『4芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』などが挙げられる。

歩く前から絵を描いていた少年時代

ミュシャは1860年7月に、当時オーストリアの占領下にあったチェコにて誕生する。父は生番所の案内係、母は家庭教師だった。

ミュシャは「歩く前から絵を描いていた」と言われるほど、早くから絵の才能があり、8歳にしてクレヨンや水彩を使いながらキリストの磔刑像を描いている。

ミュシャの幼少期は、必ずしも恵まれているとはいえなかった。当時、彼が生まれたチェコ・イヴァンツェの近くでは大規模な戦争や、コレラの流行があり、幼いミュシャは共同墓地に遺体が投げ込まれるのを見つめていたという。

かなり壮絶な環境でミュシャは、熱心なカトリック信者として育ち、12歳のころには奨学金をもらって教会の聖歌隊に入隊。しかし声が出なくなり、15歳で除隊している。当然、学校も退学処分となった。

聖歌隊にいたころのミュシャは、依然、絵にハマっていた。このころ聖歌集の表紙を描いている。

その後、父親はミュシャに裁判関連の仕事を紹介する。その進路を進もうとしていたミュシャを芸術の道に導いたのは「教会」だった。彼は地元の教会で偶然フレスコ画を目にし、「画家になれば絵で生計を立てられる」ということを知るのである。1877年、17歳のミュシャは、ここから本格的に画家の道を進み始めた。

産業革命 VS アーツアンドクラフツ運動の時代

さて、「画家になれば絵で生計を立てられる」と書いたが、この時代はまさに画家にとっては追い風だった時代だ。
その背景にあったのが「産業革命」である。1730年代から1840年までの第一次産業革命、1860年代から1900年代初頭までの第二次産業革命により、世界の図式は大きく変わった。

なかでも大きかったのは「大量生産が可能になったこと」だ。今、便利過ぎるほどの環境で生きている我々では想像しにくいが、「一つひとつ手作業で作って販売する」というやり方が「機械で一気にたくさん作って販売する」と変化したわけだ。

すると同じ時間で何百倍のものを作れるわけだ。当然、値段も下がる。作れば作るほど売れていく。世界には「モノ」が溢れるわけである。

そんな大量生産の時代において、人の感覚も「作られた人工物を持つことが大事」という「物質主義」的な雰囲気が蔓延していたのがミュシャの時代だ。

《力織機》 1835年

しかしそんな大量生産初期、モノの品質が著しく下がったのは事実だ。これに対して一部の芸術家は「いやいや、ちゃんと創造的でイケてるものを作ろうよ。職人の技術を見直そうぜ!」と、創造性を高めることを提案した。

この運動を「アーツアンドクラフツ運動」といって、ブルジョワ層にものすごくウケた。つまり大量生産による粗悪なものを見た結果、逆に芸術家の腕が評価される時代に突入するわけだ。

ステンド グラスの窓、ザ ヒル ハウス、ヘレンズバラ、アーガイル アンド ビュート

これにより、消費物はもちろん舞台などのポスターなどにもスキルのある画家が起用されることになる。また産業革命によって映画が開発されたことで、ポスター美術が流行した。

またミュシャが生きた時代、「アール・ヌーヴォー(新しい芸術)」といった様式が生まれた。ざっくりいうと「創造性・装飾性が高いお洒落なデザインをやろう」という考えである。

アール・ヌーヴォー作品

この時代、ポスターにも装飾することが求められたし、インテリアにガラス、鋼、鉄などの素材が使われたりした。ネイルでいうと「キラキラしたラインストーンをめっちゃ付ける」に近いのがアール・ヌーヴォーだ。

ちなみに、この後1900年代に突入すると「逆にアール・ヌーヴォーって、やかましくない?」とスタイリッシュで装飾の少ない「アール・デコ」が流行する。

《ヴィクトワール》 1928年

その後、1960年代になるとアール・ヌーヴォーが再燃する。しかし、2000年代に入ると、ミニマリストが流行る。これはアール・デコだ…みたいな感じで「ヌーヴォー」と「デコ」は行ったり来たりしているわけである。

この時代背景はミュシャを知るうえで重要な要素だ。ぜひここを押さえたうえで、この後を読んでいただきたい。

劇場の工房で画家として働き、挿絵画家として評価される

さて、話をミュシャに戻そう。17歳で画家を志したミュシャは、18歳のときプラハの美術学校を受験するも落ちてしまう。結局、新聞広告で知ったウィーンの舞台美術の工房に就職し、舞台の風景画をよく描くようになった。
今でいうテレビ局などで働いている「美術さん」をやっていたわけだ。努力家のミュシャは、この時期に夜間は絵画教室に通って絵の勉強をしていた。

しかし、そんなミュシャは21歳で失業してしまう。というのも、当時の工房が運営していた劇場が大規模な火災を起こし400人近くの死者を出すほどの事故を起こしてしまったのだ。これにより、ミュシャはリストラされてしまう。

無職となった彼は泣く泣く地元に帰り、地元の名士の肖像画を描くようになった。すると、その腕を地主のベラシ伯爵が発見し、家の装飾画の制作を依頼した。この結果がよかったこともあり、ベラシ伯爵の弟・エゴン伯爵がパトロンとなってくれた。

ミュシャはこの後、エゴン伯爵の援助を受けて、25歳のときにミュンヘン、28歳でパリの美術学校で絵を勉強している。彼はこの時期に絵画だけでなく、挿絵も学んだ。ミュシャ自身「道徳的権威だった」と回想するほど、エゴン伯爵は彼の恩人だったわけだ。

しかし1889年、彼が29歳のときに突如、援助が打ち切られてしまう。また無職になってしまったミュシャは仕事を求めて、フランスとチェコの出版社で書籍の挿絵画家として依頼をもらうようになった。

《白い象の伝説原画》 アルフォンス・ミュシャ

この時期のミュシャの実力は非常に高い。ミュンヘンとパリで、デッサンからしっかりと勉強したことが伝わってくる。この時期に素晴らしい仕事を多数こなしたミュシャは、1年足らずで「フランス最高の挿絵画家」といわれるレベルになった。

そんなミュシャは20代後半から講師としての仕事もはじめている。しかし挿絵画家としての生活は決して裕福ではなく、ミュシャはこの時期、馬車馬のように働いていた。

傑作「ジスモンダ」をきっかけに大人気の画家に

そんな働き盛りのミュシャは1つの作品をきっかけに、超売れっ子画家となる。その作品が、舞台女優であるサラ・ベルナールのために制作した『ジスモンダ』だ。

パリのルネサンス劇場にあるサラ・ベルナール主演のヴィクトリアン・サルドゥ監督『ジスモンダ 』のポスター。 1894年 アルフォンス・ミュシャ

1894年、クリスマス休暇を放棄したミュシャは、休暇を取った友人の仕事を代わりに印刷所でこなしていた。そこにサラがやってきて、ポスターのデザインを頼んだ。

話を聞いた印刷所長は「クリスマス休暇で画家が誰もいないから、ミュシャに頼むしかないな」と、ポスター制作の経験がなかったミュシャに描かせたわけだ。

この件を踏まえてミュシャは「ラッキーボーイ」と形容されることもあるが、いやいや彼がクリスマスにもがんばっていたからこそ掴み取ったわけである。

このポスターは正直、当時の流行りではなかった。同じ時期人気だったシェレやロートレックのポスター作品と比較すると、確かにテイストが違う。

《バニェール=ド=リュションの花祭り》 1890 ジュール・シェレ

ポスター《ディヴァン・ジャポネ》 1892年 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

印刷所長も「これ、サラにNGって言われるだろうな……」とダメ元でサラに確認すると、意外にも彼女は気に入った。早速印刷してパリの町に貼りだすと大評判を巻き起こし、ミュシャとサラの名前は一夜にしてパリ中に浸透するわけだ。

ここからミュシャは「アール・ヌーヴォーの代表者」とみなされ、ポスターの依頼を沢山こなすようになる。またポスターだけでなく、舞台装置や衣装デザインなど、舞台美術全般の仕事が舞い込んでくるようになった。

《春》 1896年 アルフォンス・ミュシャ

JOB社の煙草 1896 アルフォンス・ミュシャ

モエ・エ・シャンドン社のシャンパン 1899 アルフォンス・ミュシャ

故郷・チェコへの愛を描いた「スラヴ叙事詩」と晩年

しかしミュシャ自身は「アール・ヌーヴォーの代表」という意識はまったくなかったといわれる。彼はポスター美術に集中するだけでなく、1911年、50歳を超えたあたりから、ライフワークとして「スラヴ叙事詩」の制作に注力している。
スラブとはチェコ人の祖先にあたる人種のことだ。幼いころにオーストリアの領土として扱われ、長い間「チェコ」としての独立を目指していたなか、彼はチェコに対しての愛を抱いていた。

具体的には、1900年のパリ万博においてボスニア・ヘルツェゴビナ館の内装を担当した際にスラヴ人の歴史に興味をもったといわれている。これは彼が残りの人生をかけておこなった仕事だった。

彼は制作のためにアメリカの富豪に援助を依頼している。制作のなか、第一次世界大戦が勃発。そんななかで作品を描き、1918年には祖国チェコがチェコスロバキアとして独立した。また1921年には5作品がニューヨークとシカゴで展示された。入場者数は合わせて60万人と大ヒットを記録している。

そんな中「スラヴ叙事詩」が完成したのは1928年。ミュシャは68歳となっていた。

《スラブ人の神格化》 1926年 アルフォンス・ミュシャ

この時期にミュシャは無償で、チェコスロバキアの紙幣、切手、国章のデザインも担当している。後期のミュシャは、チェコのためにキャリアの多くを割いていた。

1939年、ミュシャが78歳のときにナチス・ドイツがチェコスロバキアを解体。ミュシャは「チェコ国民の愛国心を刺激する存在」として、逮捕・尋問されてしまう。釈放されるも、この尋問のショックがもとで体調を崩し死去した。ミュシャの死後、チェコスロバキアは再度独立を果たし、その記念としてミュシャの記念切手が発行されるなど、彼は国民的画家として今でも多くの国民から愛されている。

 

産業革命後の「新しい画家像」を体現するミュシャの存在感

モード・アダムス演じるジャンヌ・ダルク 1909年のポスター アルフォンス・ミュシャ

ミュシャの絵はとにかく美しい。画面いっぱいに植物や星、宝石などのあしらいが施されており、キラキラしている。また彼が描く女性はどこか日本的だ。キャッチ―でかわいらしく、美術館で眺めていても「見やすいなぁ」と感じる。

ミュシャが生きた時代は、まさに画家の生き方が変わった時代だ。サロン至上主義の時代から、画家がパトロンを見つけて稼ぐようになり、産業革命を経て大量生産や娯楽の進化により、ポスターが多く登場するようになった。

あえていうと「イラストレーター的」な仕事が増えてきた時代でもある。ミュシャ自身、アーティスティックな画家というよりは、広告主に寄り添うクリエイター的な仕事が多い。だからこそ見やすいし、とにかく装飾が多くて美しい。

しかし、そんな彼が最後に取り組んだ仕事は、紛れもなく「画家」だ。ミュシャ自身が発案した「表現」である。「スラヴ叙事詩」は、それまでのポスターとはまったくタッチが違う。この荘厳な雰囲気を見るたびに、彼が最後までアーティストであったことを実感する。

いま私たちが見ると、ミュシャの絵は「かわいい」だけで済まされるかもしれない。しかしその裏には、まぎれもない表現欲求がある。ミュシャの本当のすごみは「スラヴ叙事詩」にあるのかもしれない。

  • Text : ジュウ・ショ
  • Edit : Seiko Inomata(QUI)

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