「酒や薬物に溺れながら、独創性を模索した“超人”」アメデオ・モディリアーニ|今月の画家紹介 vol.11
今回は1880年~1900年代にパリで大流行したエコール・ド・パリ(パリ派)の一人、アメデオ・モディリアーニについて紹介。35年の短い生涯のなかで、非常にインパクトのある人物画を描いた画家だ。極端にほっそりとした顔は、絵画好きでなくとも、見たことのある方は多いだろう。
そんな彼はなぜ評価されているのか。いったい何がすごいのかについて紹介していこう。
イタリアの画家、彫刻家。(1884年7月12日 – 1920年1月24日)
主にパリで制作活動を行った。芸術家の集うモンパルナスで活躍し、エコール・ド・パリ(パリ派)の画家の一人に数えられる。
母親の影響で幼い頃から絵を描き始める
モディリアーニは1884年7月に、イタリア・リボルノで4番目の子どもとして誕生する。モディリアーニが生まれる前、父親は鉱山技師で成功しており、とても裕福だった。母親は知識人、学者一家の娘で、いわゆる「インテリ」の家系だ。
リボルノの眺め
順風満帆な生活だったが、モディリアーニが生まれた年に金属価格が暴落し、父親の事業は倒産に追い込まれる。本当は差し押さえになるところだったが、当時のイタリアでは「新生児がいる家庭は差し押さえできない」という法律があった。モディリアーニは生まれながら、家族を救うことになったわけだ。そんなモディリアーニは末っ子ということもあり、家族から溺愛されながら育つ。ちなみに「アメデオ」は「神に愛される者」という意味であり、モディリアーニは幼い頃から「自分は神に愛されている」と思い込むようになった。なかでもお母さんっ子だった。モディリアーニは病弱だったため、10歳になるまで自宅で母親が勉強を教えていたそうだ。
また、母方の祖父は仲のいい話し相手だった。祖父はまだ幼いモディリアーニに哲学や芸術の話をしていた。「そんな話おもしろいか?」と思うかもしれないが、母はモディリアーニがまだ小さいころに「この子は芸術家になるかも」と日記に記している。なのでサラブレッドというか、母親が芸術家に育てたかったのかもしれない。
モディリアーニはその影響もあって、幼い頃から絵を描き始めている。母も小学生くらいのモディリアーニを見て「もうこの子は画家だ」と思っていたそうだ。まぁしかし一方で「絵ばっかり描いているけど、勉強に支障をきたさないかなこの子」という不安もあったという。
そんなモディリアーニは14歳で地元・リボルノでいちばんの画家、グリエルモ・ミケーリのアトリエで絵を学び始めた。ミケーリのアトリエでは、イタリアらしいルネサンス美術風の描き方を学んでいる。当時は、肖像画だけでなく風景画や裸体画なども学んでいたそうだ。
《トスカニーシュ通り》 1898年 アメデオ・モディリアーニ
ミケーリ先生の手法は当時の流行りであった戸外制作での風景画で、生徒に「みんな!外で風景画を描こう!」と指導していた。しかしモディリアーニはめちゃくちゃ尖っていた。風景画に興味がなかったので、ほぼ描かなかったそうだ。上記の作品のように風景画を描いたものもあるが「戸外制作なんてやりたくねぇ!」と断っていたし、あえて抽象的に描いていた。それよりも裸体画に興味深々だったし、制作をしていない間は家政婦を口説いていた。かなり尖った生徒である。
このとき腸チフスという重めの病気にかかり、錯乱状態に陥った。そのなかで「(死ぬ前に)フィレンツェのピッティ宮殿とウフィツィ美術館に行きたい」と母親に願ったというのだから、当時から絵画が生活のすべてだったのだろう。その後、実際に母親はモディリアーニをフィレンツェだけでなく、ナポリ、ローマ、ベネチアなどの美術館や教会に連れていった。彼はこのとき見た芸術作品に感動し過ぎて友だちに「マジですごかった!」という旨の手紙を何通も送っている。
パリ「洗濯船」で数々の芸術家と出会う
その後、モディリアーニは18歳でフィレンツェの裸体画教室に入学。その翌年にはヴェネツィアの王立アカデミー美術学院に入る。王立アカデミー美術学院では1903年から1905年まで学んだ。
モディリアーニは、この時期に治安の悪い場所に出入りするようになったり、大麻を吸ったりする、いわゆる“不良”になった。
当時、モディリアーニが傾倒していたのは、哲学者・ニーチェだ。ニーチェの思想には「ルサンチマン」という「自分が弱者であることを自覚し強者をうらやむ心」がある。それを克服するためには自分の価値を自分で決める「超人」になる必要がある。モディリアーニがこうした反抗をしていたのは、ニーチェの哲学から来ているとされる。絵画表現も、私生活も大人に流されずに反抗していたわけだ。
《ユダヤ人女性》 1900年代 アメデオ・モディリアーニ
ちなみに1900年代初頭のヨーロッパでは「どうしたら本当に自由な芸術表現にたどり着くのか」という議論が活発におこなわれていた。1905年に「フォービスム」、1907年に「キュビスム」、1909年に「未来派」と、オリジナリティ溢れる表現が生まれていたエキサイティングな時代である。モディリアーニは、そのなかで「反抗」と「無秩序」が自由には必要だと気付いたのだ。
そんなモディリアーニは1906年、母親の援助を受けてパリに拠点を移す。現在もそうだが、当時のパリはまさに前衛芸術の中心地である。私立美大であるアカデミー・コラロッシに入学したモディリアーニは、モンマルトルにアトリエを借りて制作し始めた。この近くにあったのが、伝説のアトリエ兼住宅である「洗濯船」だ。
1910年頃の洗濯船(モンマルトル美術館所蔵)
洗濯船はピカソが『アビニヨンの娘たち』を描いた場所として知られる。つまりキュビスムが生まれた場所だ。この集合住宅には数々の画家、小説家、詩人、俳優、画商などが出入りし、作品をつくり、毎晩のように前衛芸術について語り合った。まさに洗濯船で「前衛芸術」はアップデートされたといえる。
《ジョヴァノット ダイ カペリ ロッシの肖像画》 1906年 アメデオ・モディリアーニ
モディリアーニは、ここでピカソをはじめ、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラなどの画家と交流をはじめる。モディリアーニはあんまり社交的ではなかったが、洗濯船にはよく出入りしていたそうだ。
モディリアーニが最初にピカソに会ったとき、ピカソはトレードマークの作業服を着ていた。そんなピカソを見て「彼は天才ですよ。でもあの格好はちょっと汚いよね」と苦言を呈したエピソードは有名だ。その言葉通り、モディリアーニはモンマルトルに到着したとき、周りにも一目置かれるくらいオシャレだった。部屋にはルネサンス時代の複製画が飾られ、豪華なカーテンが敷かれ、よくコーデュロイのジャケットを着ていたそうだ。
自身の過去の作品を破壊し続け、薬物と酒に溺れるモンマルトル時代
そんなオシャレなモディリアーニだったが、パリに来て1年以内に見た目が大きく変わるほど荒んでしまった。
ルネサンスの複製画は放り出され、カーテンは乱れまくっていた。また自身の過去の作品を破壊しまくっていたのだ。これはブルジョワ階級時代への反抗だった。これもニーチェの思想が関係している。秩序が保たれ反抗心のないブルジョワ階級を「汚れたもの」としており、かつての作品も「自分がブルジョワ階級だった時期の駄作」としていたわけだ。
当時のモディリアーニは薬物中毒者であり大酒飲みだった。なので発作的になっていたのかもしれない。以下の絵は、どれも1908年に描かれた裸体画だ。モディリアーニはオリジナリティのある表現を模索していた。
《ニュースフラン》 1908年 アメデオ・モディリアーニ
《アクト(小ジャンヌ)》 1908年 アメデオ・モディリアーニ
《帽子をかぶった裸体》 1908年 アメデオ・モディリアーニ
この時期にサロン・ドートンヌやアンデパンダン展といった展覧会に出品しているが、モディリアーニの作品はほとんど評価されず、値引きしないと売れないという状況だった。
モンパルナスでエコール・ド・パリのメンバーと出会う
モディリアーニは1909年からモンマルトルを離れ、セーヌ川を挟んだモンパルナスという町に移住した。当時モンマルトルはだんだんと観光地化していき、高級住宅街になっていくなか、多くの芸術家が家賃の安いモンパルナスに移住していたのだ。
カフェ「クロズリー・デ・リラ」 1909年
そして、当時モンパルナスで前衛芸術をしていた画家群をエコール・ド・パリという。シャガール、藤田嗣治(レオナール・フジタ)、キスリング、ローランサン、などのメンバーだ。なかでも通称・蜂の巣といわれる「ラ・リューシュ」という共同アトリエで、作品を制作していた。
ラ・リューシュ
この1909年から1915年くらいまで、モディリアーニは彫刻に傾倒する。当時モンパルナスで出会った彫刻家・ブランクーシの影響を受けた。ちなみにブランクーシはイサム・ノグチの師匠としても有名だ。
この時期、モディリアーニは合間にスケッチ作品も残している。彫刻的な作品に変化していく様がおもしろい。
《青いブラウスを着た少女の肖像画》 1910年 アメデオ・モディリアーニ
《カリアティード》 1912年 アメデオ・モディリアーニ
《ポール・アレキサンダースの肖像》 1913年 アメデオ・モディリアーニ
《ベアトリス・ヘイスティングスの肖像》 1915年 アメデオ・モディリアーニ
だんだんとフォルムが単純化されていく様が分かると思う。この時期にモディリアーニは女性の立像(カリアティード)を数多く作っていた。ピカソも傾倒した原始美術のテイストもあり、彫刻から絵画に落とし込んでいるからか、瞳孔がなくなっていく。
こうした単純化されたフォルムはモディリアーニの代名詞ともなった。
薬物とアルコールに溺れながらも代表作を生み出した晩年期
1915年ごろ、モディリアーニは画商や友人の勧めで絵画に専念するようになる。当時のモディリアーニの彫刻は周りからあまり評価されていなかった。ちなみに当時はジャーナリストのベアトリスと同棲していたものの、二人とも薬物中毒でアルコール依存症であり、とんでもなく荒れた生活をしていた。第一次世界大戦が起きたが、病弱で兵役に呼ばれなかったほどだ。
1916年に画商・ズボロフスキーと専属契約を結ぶ。これで細々ではあるが絵が売れ始めたし、画材を提供してもらえるようになった。しかし陽気なモディリアーニは収入のほとんどを薬物と酒に使ってしまっていた。
《ポール・ギヨームの肖像》 1916年 アメデオ・モディリアーニ
そんななか、1917年に美大生だった14歳年下のジャンヌと結婚。翌年には娘を授かることになる。
ジャンヌ・エビュテルヌ
ジャンヌの作品は数少ないが、非常に魅力的でおもしろいので、ぜひご覧いただきたい。
《自画像》 ジャンヌ・エビュテルヌ
しかしその後もモディリアーニは薬物に溺れ、稼いだ金をすぐに安酒に変えるような生活を送っていた。1917年に画商・ズボロフスキーの支援で個展を開くが、陰毛やわき毛を描いたことで、警察沙汰になってしまい大失敗に終わった。
《横たわる裸体》 1916年 アメデオ・モディリアーニ
当時はカフェに行っては、隣に座った客の似顔絵を描くことでお金をもらって、酒を飲んでいたそうだ。妊娠中のジャンヌがそんなモディリアーニを一晩中探すこともあった。
酔っぱらうと“脱ぎ癖”があったらしく、カフェで全裸になることもしばしば。モディリアーニはかなり荒れた生活だったが、陽気に周りを盛り上げるため、人気者だったという。しかしそんな薬物とアルコールの「ヤバい生活」のなかで、モディリアーニは代表作をいくつも描いた。特にジャンヌを描いた青い目の作品は、今でも高い評価を得続けている。
《赤いショールをまとったジャンヌ・エビュテルヌ》 1917年 アメデオ・モディリアーニ
《黄色いセーターを着たジャンヌ・エビュテルヌ》 1900年代 アメデオ・モディリアーニ
《ジャンヌ・エビュテルヌ・オー・グラン・シャポー》 1918年 アメデオ・モディリアーニ
《座った裸体》 1918年 アメデオ・モディリアーニ
こうして精力的に作品を描いていたが、1920年1月にモディリアーニはアトリエで倒れてしまう。そのまま持病の結核による髄膜炎で亡くなってしまった。
奥さんのジャンヌは、第二子を妊娠していたが、その翌日に自宅のアパートから飛び降りて亡くなってしまった。
破天荒な生活が伝説となったモディリアーニ
モディリアーニの破天荒な人生はゴッホと並び、もはや伝説とされている。
モディリアーニの死後、美術評論家のアンドレ・サルモンは「モディリアーニは薬物や酒によって自我の呪縛から解放されたことで自由に作品を創造できた」と発表した。その後、若い画家たちはモディリアーニを真似して、みんな大麻を吸い、アブサンを飲むようになったくらいだ。今でもその人生は映画化されるほど、伝説と化している。
実際、彼の作品は死後に評価されるようになる。1926年の回顧展では35,000フランという高額で肖像画が売れている。また、最近だと2018年のサザビーズにおいて裸婦画が1億5,720ドル(172億円)で落札された。
《Nu couché(シュル・ル・コテ・ゴーシュ)》 1917年代 アメデオ・モディリアーニ
彼の生活は、我々には到底理解できないほど荒んでいた。持病の結核を持っていても、10代のころから毎日のように大麻を摂取し、大量の酒を飲んだ。それはモディリアーニが凡人から超人へと昇華するために必要なツールだったのだろう。幼い頃からニーチェを愛読していた彼は「真の自由とは何か」を長く探っていたのだろうと思う。
特に1900年前後のパリは、前衛芸術が芽吹き始めた時期だ。多くの画家が「自分だけの表現」を模索していた。モディリアーニはこうした時流の影響も受けたことだろう。そんななかで生まれたモディリアーニの絵画は、まさに唯一無二だ。裸体画、彫刻、原始美術、単純化、キュビスムなど、さまざまな影響が統合された到達点なのだといえる。
【今作品を見るなら・・】
TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション
【東京会場】
会場:東京国立近代美術館
住所:東京都千代田区北の丸公園3-1)
会期:2024年5月21日(火)~8月25日(日)
休館日:月曜日(ただし7月15日、8月12日は開館)、7月16日、8月13日
開館時間:午前10時~午後5時(金曜日と土曜日は午後8時まで、入館は閉館の30分前まで)
展覧会公式サイト
※会期中、一部作品の展示替えあり ※以下、詳しくは展覧会公式サイトをご確認ください
- Text : ジュウ・ショ
- Edit : Seiko Inomata(QUI)