「苦しくても“光の魔術師”であり続けた、孤高の巨匠」レンブラント・ファン・レイン|今月の画家紹介 vol.27
今回のアーティストはレンブラント・ファン・レインだ。“光の魔術師”の異名を持ち、17世紀のオランダで活躍したバロック絵画の巨匠である。彼の人生は、まさにジェットコースターだった。若くして富と名声を手に入れる一方、晩年は貧民街で貧しい暮らしを送った。そのどん底にあってこそ、レンブラントは最も深い作品を描いた。なぜそのようなことが起きたのか。そこにこそ、彼のすごさが詰まっている。
ネーデルラント連邦共和国(現・オランダ王国)の画家。(1606年7月15日 – 1669年10月4日)
レンブラントの通称で広く知られ、大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。
粉屋の息子が天才と呼ばれるまで
1606年、オランダのライデンで、レンブラントは製粉業を営む中流家庭の9番目の子として生まれた。両親は法律家への道を期待していたが、彼は大学をわずか数ヶ月で辞め、画家の道を選ぶ。
最初の師はイタリア留学経験を持つヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフ。3年間の修行の後、18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と名高いピーテル・ラストマンに師事する。この半年間の修行が決定的だった。
ここでレンブラントはカラヴァッジョ派の「明暗法(キアロスクーロ)」を徹底的に学んだ。暗闇の中から、光で対象を浮かび上がらせる技法である。
ライデンに戻ってアトリエを構えたレンブラントは、すぐに頭角を現す。1628年、オランダ総督の秘書官コンスタンティン・ホイヘンスに見いだされ、「判断力と表現力に優れる粉屋の息子」と評された。エッチング(版画)がヨーロッパ中に流通したことも追い風となり、20代半ばにしてレンブラントの名は国際的に知れ渡っていった。
集団肖像画という革命、《テュルプ博士の解剖学講義》と《夜警》
1631年、名声を得つつあったレンブラントはアムステルダムへ移住し、本格的な肖像画家として活動を始める。そして1632年、26歳の彼に大きな転機が訪れる。著名な外科医ニコラス・テュルプ教授の解剖学講義の場面を描く、集団肖像画の依頼だ。
そもそも当時、この「集団肖像画」という依頼はオランダで流行していた。記念写真的な感覚で肖像画を描いてほしいが、一人では高額な依頼料を出せない。そこで依頼料を集団で割り勘し、肖像画を描いてもらうというものだ。
当時の集団肖像画は、依頼人全員を整然と並べて等しく描く「記念写真」のようなものだった。つまりそこに物語性も個性もなく、淡々と人の顔を並べて描くのが通常だったのである。例えば以下の作品が、当時主流の集団肖像画だ。
全員の顔はよくわかるが、ものすごく不自然さを感じるだろう。なんなら、ちょっと圧を感じるというか、恐怖すら覚える。
しかし、レンブラントはその常識を覆した。テュルプ教授が鉗子で腱をつまむ瞬間を中心に据え、それを見守る人々の表情と視線に緊張感と熱量を持たせた。暗い背景から光の中に浮かび上がる人物たちは、まるでひとつのドラマの登場人物のようだ。
この《テュルプ博士の解剖学講義》はたちまち評判となり、肖像画の依頼が殺到した。レンブラントはこの時期に、画商の縁戚であるサスキア・ファン・アイレンブルフと結婚し、多くの弟子を抱える大規模な工房を構え、豪邸を購入する。まさに絶頂だった。
そして1642年、36歳のレンブラントは生涯最大の大作《夜警》を完成させる。これも集団肖像画だ。
縦3m63cm、横4m38cmの巨大なキャンバスに、火縄銃手組合の自警団を描いたこの絵は、前例のない動きと劇場性を持っていた。隊長フランス・バニング・コックが副隊長に指示を出す瞬間を中心に、人物たちが複雑に重なり合い、光と影が激しく交差する。弟子のホーホストラーテンは「展示された他の絵が、まるでトランプの図柄のように見えてしまう」とその傑出ぶりに驚いた。
しかし、この絵は同時にトラブルの種でもあった。明暗の効果を優先するあまり後列の人物の顔がほぼ見えなくなり、さらにメンバーでもない謎の少女を画面中央に目立たせたため、画料を出し合った依頼人たちの不満を買った。
これがレンブラントの作風のデメリットだ。
例えば、あなたがカメラマンに集合写真を頼むとしよう。その時、後列左端の人の顔が切れているとする。当然、あなたは「撮り直してほしい」と伝えるはずだ。しかしカメラマンは「いや、この方が全体の構図がきれいだから。撮り直しはできない」と言う……そんな感覚である。
レンブラントは、ただの集合肖像画を描くつもりはなかった。だから、たびたびトラブルが起きた。彼は依頼人の要望による作品であっても、そこに絵画作品としての美を追求していたのだ。
最愛の妻の死と、転落の始まり
奇しくも《夜警》を描いたその年、妻サスキアが29歳で亡くなった。しかも、生まれた4人の子供のうち成人まで育ったのは息子ティトゥスだけで、幼子の死も重なっていた。
その後、子育てのために雇った乳母ヘールトヘ・ディルクスとの愛人関係、さらに後に雇った家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルスとの関係、裁判沙汰や訴訟と、私生活は泥沼を迎えた。そんななかで、仕事の数も減っていく。
また、彼の評判はこの時期にがくんと下がった。先述した通り、彼の作品に依頼人が不満を募らせることが多々あった。また、レンブラントは完璧主義者ゆえ、完成まで数カ月かかることもあったそうだ。
そんななか、彼の本当の問題は浪費癖だった。彼は絵画、骨董、版画、日本の武具、鉱物、貝殻、極楽鳥の剥製――手当たり次第に収集し、13,000ギルダーという巨額で豪邸を購入していた。収入をはるかに上回る支出が続いた。
1656年、高等裁判所はレンブラントに財産の全放棄を宣告する。今でいう差し押さえに近い。363項目にわたる財産が競売にかけられ、コレクションも邸宅も次々と買い叩かれた。かつての輝かしい工房の主は、貧民街ヨルダーン地区の小さな家へと移り住むことになる。
どん底で生まれた最も深い絵
破産後、レンブラントは息子ティトゥスと内縁の妻ヘンドリッキエが共同で立ち上げた「画商」に雇われる形で制作を続けた。アムステルダムの画家ギルドが、彼を画家として扱わないよう定めたため、苦肉の策だった。
しかし、この時期の作品こそ、レンブラントが最も「レンブラントらしい」絵を描いた時代だ。
《ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴》では、沐浴する女性が王の手紙を持ちながら、複雑な内面を浮かべた表情を見せる。モデルはヘンドリッキエだ。
《放蕩息子の帰還》では、財産を使い果たして戻った息子を父が優しく迎え入れる。腕の中に頭を埋める息子の背中、それを包む老いた父の手――この絵には言葉がいらない。聖書の場面を描いていながら、そこには明らかにレンブラント自身の境遇が投影されている。
初期の明暗は演劇的だった。光は舞台のスポットライトのように鋭く、劇的な瞬間を切り取るためのものだった。しかし、晩年の光は違う。人物の内側からにじみ出るような、柔らかく温かい光だ。筆致は荒く、絵の具は厚く盛られ、遠目には絵の具の塊のようにも見える。しかし、その「粗さ」の中に、対象への深い共感と人間理解が宿っている。
《布地商組合の見本調査官たち》は、晩年の集団肖像画の傑作だ。
テーブルを挟んで書類を見ていた幹部たちが、不意に部屋へ入ってきた者に視線を向けた瞬間を切り取っている。その目が、まるでこちらを見ているようだ。生涯をかけて向き合い続けた「人間を描くこと」への答えが、ここにある。
「光」で人間の内面を描いた最初の画家
では改めて、レンブラント・ファン・レインの何がすごかったのか。それは「光と影を使って、人間の内面を描くことを発明した」という一点にある。
カラヴァッジョも明暗法を用いた。しかし、彼の光は劇的な場面を演出するための道具だった。レンブラントの光は違う。顔の鼻筋に走る一筋の光、暗闇の中に浮かぶ手の甲、老人の皺に宿る影――それらは、「この人物は今、何を考えているのか」を語る光だ。
生涯に40点以上描いたといわれる自画像も、この文脈で見ると意味が変わる。若き日の颯爽とした自画像から、破産後の苦渋をたたえた老年の自画像まで。それらは単なる「練習」や「自己宣伝」ではなく、自分という人間の内面を光と影で解剖し続けた、長い探求の記録だ。
レンブラントは死の直前まで描き続けた。63歳で亡くなった年に描かれた《63歳の自画像》は、風雨にさらされた顔に、静かな諦観と揺るぎない存在感をたたえている。この目を見ていると、人生の重さというものが絵の中から伝わってくる。
絵画で「人間を描く」とはどういうことか。若き天才であるレンブラントはその問いに、光と影の言語で答え続けた。
- Text : ジュウ・ショ
- Edit : Seiko Inomata(QUI)









