「抽象の極限を追求し、赤・青・黄にたどり着いた革新者」ピエト・モンドリアン|今月の画家紹介 vol.16
今回は、抽象絵画の先駆者、ピエト・モンドリアンを取り上げる。幾何学的な構成と、赤・青・黄の三原色を用いた独自のスタイルで、現代デザインにも多大な影響を与えた画家だ。
例えばイヴ・サンローランは1965年秋冬に、モンドリアンの代表作『コンポジション』をヒントにドレスをデザインした。
そんなモンドリアンの歩みは、単なる美術の進化にとどまらない。具象から抽象へと至る独特の変遷を辿りながら、彼が芸術に込めた思想とは何だったのか。今回は、モンドリアンの生涯を振り返りつつ、その革新性に迫る。
19世紀末から20世紀のオランダ出身の画家。(1872年3月7日-1944年2月1日)
ワシリー・カンディンスキー、カジミール・マレーヴィチらと並び、本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家とされる。
激動の西洋美術の最中に過ごした10代
コンポジションに着手した頃(1922年)
ピエト・モンドリアンの父はデッサンの教師、叔父はハーグ派に属する画家。生まれながらにして芸術の血が流れる家系であった。特に叔父に連れられ、広大な田園風景の中で筆を走らせた日々は、幼いモンドリアンにとってかけがえのない時間だった。
一見すると恵まれた環境のように思えるが、彼の家庭は決して穏やかではなかった。母は病弱で、父は厳格なキリスト教徒。幼い長女が家事のすべてを背負うほど、家庭は厳しい状況にあった。そんな中、モンドリアンはただひたすらに絵を描いた。彼にとって芸術は、現実を超えて自分自身を解放する手段だったのかもしれない。
10代から20代にかけて、彼が描いたのは風景画や動物の絵。今でこそ抽象画の先駆者とされる彼だが、はじめは伝統的な描写に真摯に向き合い、絵の基礎を磨き続けた。そしてこの時期の経験が、やがて彼の革新的なスタイルへとつながっていくことになる。
《撃たれたウサギ》ピエト・モンドリアン 1891年
さらに、モンドリアンはオランダの「ハーグ派」からも大きな影響を受けた。
《干し草の山のある農家》ピエト・モンドリアン
ハーグ派は風景画を中心とした芸術運動であり、鮮やかな色彩ではなく、くすんだトーンを用いることで街の空気感や自然の移ろいを描き出すのが特徴だった。
この流派には、あのフィンセント・ファン・ゴッホも一時期属しており、彼の初期作品からもハーグ派の影響を感じ取ることができる。まだ情熱的な色彩を爆発させる前のゴッホは、しっとりとした陰影や落ち着いた色調でオランダの風景を描いていた。
モンドリアンの初期の風景画にも、まさにこのハーグ派の特徴が色濃く表れている。くすんだ色彩、静謐でありながらどこか郷愁を誘う作風。これらは彼の画家としての基盤を築き、やがて抽象絵画へと至る重要なステップとなったのである。
20年間「自分だけの表現」を模索していた
1892年、20歳になったモンドリアンは、アムステルダム美術学校に入学する。
ここで彼は、これまで親しんできたハーグ派の影響に加え、印象派や後期印象派の技法を学びながら、画家としての基盤を着実に固めていった。
さらに、彼は大学在学中に教員免許を取得している。後の革新的な作風からは意外にも思えるが、当時のモンドリアンには安定した職を視野に入れる堅実な一面もあったのだ。
《Boerderij met wasgoed aan de lijn》ピエト・モンドリアン
特にモンドリアンに大きな影響を与えたのは、先述した通りゴッホやスーラといった後期印象派の画家たちだった。彼は彼らの技法を巧みに取り入れつつ、自身の独創性を磨き上げていった。
ハーグ派の技法を基盤としながら、ゴッホからは鮮烈な色彩、ゴーギャンからはフォービズム的な大胆な色面、スーラからは点描、そしてセザンヌからは幾何学的な構成力を吸収していった。さまざまな要素を貪欲に取り入れながら、彼の表現は次第に変化を遂げていく。
この時期のモンドリアンは、まさに自分だけの表現を模索していた。彼の目標は決して大衆に受けることではなかった。むしろ「自分の内面をどのように作品へと昇華させるか」。それこそが、彼の芸術における最大の課題だったのである。
《Truncated view of the Broekzijder mill on the Gein, wings facing west》ピエト・モンドリアン
1906年、モンドリアンは風景画でウィリンク・ファン・コレン賞を受賞し、オランダ国内で風景画家としての地位を確立する。しかし彼にとってこれはあくまで通過点に過ぎなかった。
彼の目標は「風景を描くこと」ではなく「自身の内面を表現すること」だったのだ。だが、その理想にはまだ到達していない。
そんな感覚を覚えていたモンドリアンは1907年頃から、これまでの作風を一新し、新たな表現へと踏み出す。
例えば同年に描かれた作品を見てみよう。前者は印象派的な光の使い方が際立つ作品で、伝統的な風景画の延長にある。しかし後者は抽象度が一気に高まり、後に彼の代名詞となる赤・青・黄の原色が姿を見せ始める。
これはまさに、モンドリアンが具象の世界から抽象の世界へと踏み出す瞬間だった。
《The Oostzijdse Molen by night》ピエト・モンドリアン 1907〜1908年
《Red Tree》ピエト・モンドリアン 1908〜1910年
この時期、母の死という大きな衝撃を受けた彼は「神智学」というスピリチュアルな思想に傾倒していった。
神智学とは「自分の内面と向き合うことで、自然界を超えた大きな影響を得る」という考え方であり、モンドリアンにとって新たな表現の方向性を与えた。
これにより彼は自然を写実的に描くことをやめ、内面をキャンバスに反映することに集中するようになる。大きな賞を受賞し名声を得たにもかかわらず、それらを捨て新しい表現を追求し始めたのである。
キュビスムへの傾倒と、抽象絵画の芽生え
さらに、モンドリアンは「キュビスム」にも強い衝撃を受ける。
ピカソによって発展し、ジョルジュ・ブラックによって引き継がれていたこの革新的な手法は、彼にとってまさに目から鱗の体験だった。
「パリの芸術はやはりすごい」と感銘を受けたモンドリアンは、対象を単純化し幾何学的に再構成することで感性に訴えかけるこの表現方法に強く惹かれていった。
そして1911年頃から、彼の作品も次第に変化を見せ始める。これまでの自然主義的な要素が薄れ、形はより抽象的になり色彩や構成に独自の探求が加わっていった。
モンドリアンは「見えるもの」ではなく「本質」を描くことこそが、真の芸術であると確信しつつあったのだ。
《Stilleven met gemberpot II》ピエト・モンドリアン 1912年
1年で完全に抽象絵画へと移行したことが作品からも明らかである。この劇的な変化こそ、彼が「新たな芸術」へ向かう決意を固めた証と言える。
その後、1914年にオランダへ帰国。母国で抽象絵画を追求する仲間たちと交流を深める中で、彼はある重要な問いにたどり着く。
「描く対象の形を変えるのではなく、対象そのものをなくしてしまったらどうなるのか?」この問いが、モンドリアンの芸術をさらに次の段階へと押し上げた。彼はついに図形そのものだけを描く表現へと進化する。
それは当時の美術界にとってあまりにも革新的なアプローチだった。これまでの絵画は、何かを「描くこと」を前提としていた。しかしモンドリアンはその前提を根底から覆し、色と線だけで構成される新たな世界を生み出したのである。
《Composition No.IV》ピエト・モンドリアン 1914年
1917年、モンドリアンは前衛的な芸術雑誌「デ・ステイル」に作品を発表する。
この雑誌は芸術の新たな方向性を模索する場となり、彼はここで「新造形主義(ネオ・プラスティシズム)」と名付けた独自の理論を発表した。
モンドリアンは小冊子にまとめた「新造形主義」の基本原則として、以下の要素を定義した。
・垂直線と水平線によって構成される図柄
・線によって形成されるグリッド
・赤・青・黄の三原色を基本に、白・黒・灰色を補助的に使用
・神智学の思想に基づき、写実性を排し、自己の内面を探求するもの
・合理的であり、秩序と調和の取れた表現を目指すもの
この「新造形主義」により1917年以降、モンドリアンの芸術は確固たる世界観を確立する。
「赤・青・黄」の表現は、彼が歩んできた芸術の変遷を物語るものだった。初期の印象派風の風景画から始まり、抽象化された風景画、そしてキュビスムの影響を受けた作品を経て、最終的には対象物を完全に排除した純粋な図形の構成へと進化した。
これは単なるスタイルの変化ではない。モンドリアンが長年葛藤しながらも追求し続けた「人間の内面を描く」という究極の表現に他ならなかった。
モンドリアンのこの方向性は絵画を究極まで抽象化し、さらに使用する色彩を制限することで、余計な“示唆”や不要な要素を徹底的に排除するというものであった。
ただし最初から原色を大胆に使ったわけではない。最初は淡い色彩を使って作品を仕上げていたのである。
《Composition with color planes 2》ピエト・モンドリアン 1917年
モンドリアンの「赤・青・黄」
1920年、ついに「モンドリアンといえばこれ」と認識される作風が確立される。
このスタイルは、平行線と垂直線で構成された格子状の構造に、一部の区画が赤・青・黄の原色で塗られるのが特徴だ。
余計な要素を排除し、線・形・色のみで純粋な秩序と調和を生み出す。まさに彼が求め続けた「新造形主義」の完成形だった。
このスタイルは単なるデザインではなく、モンドリアンにとって世界の根源的な秩序を可視化する試みでもあった。長年の探求の果てに到達したこの表現は、現代の建築、デザイン、ファッションに至るまで幅広い影響を与え、20世紀美術の象徴的なビジュアルとして今なお私たちの記憶に刻まれている。
《Composition A》ピエト・モンドリアン 1920年
《Tableau I》ピエト・モンドリアン 1921年
このスタイルはモンドリアン自身が宣言して確立したものだが「デ・ステイル」という前衛的な芸術グループに所属する他のメンバーたちも同様のスタイルを取り入れていた点が興味深い。
以下は「デ・ステイル」の創始者の一人であるデオ・ヴァン・ドゥースブルフの作品だ。
《Composition X》デオ・ヴァン・ドゥースブルフ 1918年
しかし「デ・ステイル」の創始者の一人であるテオ・ファン・ドゥースブルフとは、芸術の方向性において決定的な違いがあった。
ドゥースブルフの作品には、平行線や垂直線だけでなく、対角線が積極的に用いられていた。この点で、モンドリアンとは根本的な意見の相違があったのだ。
モンドリアンにとって、芸術とは純粋な秩序と合理性の追求だった。彼は余計な要素を徹底的に排除し、垂直線と水平線のみで世界の本質を表現することを信念としていた。そのため対角線の導入や複雑な構造は、彼の求める調和とは相容れないものだったのである。
この芸術観の違いが決定的となり、モンドリアンは1924年に「デ・ステイル」を脱退する。彼にとって、合理性と純粋さを極限まで研ぎ澄ませたスタイルこそが到達すべき芸術のゴールだったのだ。
最期まで代名詞のコンポジションを貫いた晩年期
モンドリアンの新造形主義が興味深いのは、同じフォーマットを維持しながらも絶えず改良を加え続けた点である。彼は一度確立したスタイルに固執するのではなく「より純粋な表現」へと進化させることに挑み続けた。
例えば、以下のような微細な変化が見られる。
・着色するスペースを減らすことで、余白のバランスを研ぎ澄ます
・線の間隔を短くして立体感を生み出す
・キャンバスをひし形に回転させ、新たな視覚的リズムを生み出す
・黒線に色をつけ、構成のダイナミズムを強調する
こうした小さな変化の積み重ねこそ、モンドリアンの探求の証だった。そして、それらの変化には彼の内面が確実に反映されている。合理性と調和を追求する彼の芸術は、決して静的なものではなく常に進化し続けるものだったのである。
《Composition with Gray Lines》ピエト・モンドリアン 1918年
《Composition C》ピエト・モンドリアン 1920年
1938年、第二次世界大戦が勃発すると、モンドリアンはパリからニューヨークへ移住する。そして亡くなる1944年までその地で過ごした。晩年期、彼はニューヨークの華やかな都市文化に大いに影響を受けた。
その影響は遺作となった「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」に顕著に表れている。
《Victory Boogie Woogie》ピエト・モンドリアン 1944年
この作品は従来のモンドリアン作品には見られないほど鮮やかな色彩を使用しており、彼の創作の集大成ともいえるものだ。
これまでの作品では、赤・青・黄の三原色と黒・白・灰色を厳格に用いていたが、この作品ではより自由で躍動感のある色彩が取り入れられている。それはモンドリアンが生涯をかけて探求した「秩序と調和」への到達点とも言える表現だった。
さらに、この作品は後にデザイン学校の教材としても広く使用され、現代の美術・建築・ファッションにまで影響を与え続けている。単なる絵画の枠を超え、視覚芸術の新たな基盤を築いたモンドリアンの表現は、今なお私たちの身近なデザインの中に息づいているのだ。
抽象絵画によって「自分との対話」が生まれた
ピエト・モンドリアンは、絵画の世界において「抽象」を極限まで追求し、新たな表現の可能性を切り開いた画家である。
彼の芸術は、印象派やキュビスムといった既存のスタイルを取り込みつつも、最終的には「新造形主義」という独自の世界観を確立するに至った。この過程で、モンドリアンは対象そのものを完全に排除し、平行線と垂直線、赤・青・黄の三原色を基調とした純粋な構成へと到達する。
さて、美術作品というものは抽象的であればあるほど「鑑賞者の自由」が拡大するものだ。
例えば「猫」というタイトルで「猫の絵」が飾られていたとする。鑑賞者は「猫だなぁ」「かわいい」などと画一的に感じるだろう。
一方で「猫」というタイトルで「線が一本引かれただけの絵」があったとする。受け手は膨大な想像をするだろう。きっと出てくる解釈は千差万別だ。
これが「美術を通して自分と対話をする」ということである。自由度が高い分、難しさを感じるかもしれないが、美術のおもしろさはここにある。
そう考えるとモンドリアンの「抽象絵画」という発明によって、美術は創作物から哲学へと数段進歩したのかもしれない。
- Text : ジュウ・ショ
- Edit : Seiko Inomata(QUI)