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「目に見えない霊的な啓示で抽象絵画を切り開いた画家」ヒルマ・アフ・クリント|今月の画家紹介 vol.17

Mar 11, 2025
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介する。

今回特集したいのはスウェーデンの画家、ヒルマ・アフ・クリントだ。美術史において、抽象画を発明したのはワシリー・カンディンスキーだと思われていた。しかし彼に先立って、抽象画をはじめていたとされるのがアフ・クリントである。今回は、そんなヒルマ・アフ・クリントの生涯を振り返り、彼女が描こうとした「未来のための抽象絵画」について考えてみよう。

「目に見えない霊的な啓示で抽象絵画を切り開いた画家」ヒルマ・アフ・クリント|今月の画家紹介 vol.17

Mar 11, 2025 - ART/DESIGN
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介する。

今回特集したいのはスウェーデンの画家、ヒルマ・アフ・クリントだ。美術史において、抽象画を発明したのはワシリー・カンディンスキーだと思われていた。しかし彼に先立って、抽象画をはじめていたとされるのがアフ・クリントである。今回は、そんなヒルマ・アフ・クリントの生涯を振り返り、彼女が描こうとした「未来のための抽象絵画」について考えてみよう。
Profile
ヒルマ・アフ・クリント

スウェーデンの画家、神秘主義者。(1862年10月26日-1944年10月21日)
彼女の絵は最初期の抽象絵画の一つとされ、カンディンスキーやモンドリアンに先行しているが、死後20年は作品を公開しないよう言い残し、長い間知られてこなかった。「5人(de fem)」というグループに属し、図形にも似たその絵は複雑な哲学的思考を描写したものである。

妹の死をきっかけにスピリチュアルに関心を持つ

1900年代初めの肖像

1862年、スウェーデンの貴族の家系に生まれた彼女は、ストックホルム近郊のカールスベリ城で育った。両親のマチルダとヴィクトルの間に生まれた4人目の子供であり、父・ヴィクトルは海軍の指揮官だ。ヴィクトルは天文学、航海術、数学などに造詣が深く、アフ・クリントは数学に興味を持つようになる。

1872年、アフ・クリントが10歳のとき、家族はストックホルムに移住。同年、彼女はリッダルガタンにある女子校に入学した。当時のスウェーデン貴族の慣習に従い、彼女の家族は夏の間、メーラレン湖のアデルソ島にある別荘で過ごしていた。この時期に育まれた自然との深い結びつきが、彼女の作品の科学的・自然的なテーマに影響を与えたのは間違いない。

1880年、18歳のアフ・クリントはストックホルム工芸学校に入学。肖像画や風景画の技術を学ぶ。しかし、同年に悲しい事件に襲われた。妹のヘルミナが死去してしまったのだ。

このことをきっかけに、彼女はスピリチュアリズム(霊的世界)への関心を深めるようになった。「スピリチュアル」と聞くと「ウッ」と思う方もいるかもしれないが、当時のヨーロッパでは、割と流行っていた。

というのも、1800年代から産業革命が起こり、世界は一気に大量生産大量消費の時代になった。だんだんと世界にモノがあふれ物質主義に陥るなか「物質から解放されたい」という思いのまま、精神世界の探求はブームになったのだ。1880年代からイギリスで起こった「アーツアンドクラフツ運動」なんかはその代表格である。

こうした流れもあり、当時のヨーロッパでは亡くなった者と交信する“交霊会”が行われていた。

交霊会の様子。中央にいるのはエリック・ヤン・ハヌッセン(1928年頃)

アフ・クリントもまた、霊的な実験を始めている。またマダム・ブラヴァツキーが創設した神智学協会に強い関心を持つようになり、哲学への関心も深めていく。

ちなみに、カンディンスキー、モンドリアンなどの抽象画家もこうした精神性の深い活動に興味を示していた。抽象画は自分自身の精神的な課題から生まれるものなのだろう。

ストックホルム王立アカデミーへの入学と「5人(De Fem)」の結成

ヒルマ・アフ・クリント,ハムガータン(ストックホルム)のスタジオにて

その後、アフ・クリントは1882年から1887年にかけて、ストックホルム王立美術院で美術教育を受けた。彼女は5年間の在学期間中に、デッサン、肖像画、植物画、風景画を専門に学び、優秀な成績で卒業した。

この在学期間中に、アフ・クリントはアンナ・カッセルと出会う。彼女もまたスピリチュアルに関心を持っていた画家だ。2人はシグリッド・ヘドマン、コーネリア・セダーバーグ、マチルダ・ニルソンを加えて「5人(De Fem)」という芸術家集団を組織した。

最初は絵画ではなく、心霊術師のグループだったが、その術を創作に落とし込むようになる。交霊会でアフ・クリントは「高次の存在」からの指示を受けたと考えられる。彼女は「アマリエル」「クレメンス」「エステル」などの霊的指導者から、特定のテーマに沿った絵画を制作するように求められたそうだ。

その指示のまま手を動かすことで、絵が出来上がっていった。つまりこれが結果的に、抽象絵画になっていったわけである。日本風に補完すると、鉛筆バージョンのこっくりさんのような感じだ。こっくりさんに任せて作画をしていった。

ブックレット

すごいのが、この手法は(思想は違えども)彼女が実践して10年以上経ってから、シュルレアリスムという哲学で応用されることになることだ。シュルレアリスムでは「無意識下に眠った思想を詩や絵画として描く」ということを考えていた。

そのため、自動筆記(オートマティスム)という手法を試していた。「とにかく高速で文章を書く」という手法が代表的だが、サルバドール・ダリなんかはまどろみのなかで見た光景を絵に落とし込むという技法を取っている。

「神殿のための絵画」の制作と遺言

ただしアフ・クリントは、こうしたスピリチュアルな作品ばかりを描いていたわけではない。より商業的な絵も描いていた。当時はまだまだ男性が強い画壇のなかで、女性の職業画家として成功した珍しい例でもある。

《晩夏》ヒルマ・アフ・クリント 1903年

そんなアフ・クリントは卒業後に、ストックホルムの中心部にあるアトリエ・ビルディングのスタジオを奨学金として与えられた。この建物は当時のストックホルムの文化の中心地であり、同じ施設には美術館が併設されていたという。これだけで彼女の優秀さがわかる。

そののちも職業画家として精力的に作品をつくるなか、1906年に彼女は霊的存在から「スピリチュアルな絵を描け」とお告げを受けた。これを踏まえて作られたのが全193点からなる「神殿のための絵画」だ。

《Primordial Chaos》ヒルマ・アフ・クリント 第16号 1906~1907年

《白鳥》ヒルマ・アフ・クリント 第17号 1914年10月〜1915年3月

また同じくお告げをもとに、1907年からは「10の最大物」シリーズの作成に移った。各作品がとんでもなく巨大だが、彼女は2カ月で描き切ったという。まさに発想のままに一気に描き切ったのだろう。

こうして、キャリアの後半はスピリチュアルな抽象画と、職業画家としての作品の両方を精力的に制作し、1944年に路面電車の交通事故によって亡くなる。

そして後年、西洋美術史に大きなスキャンダルを起こすのが遺言だ。彼女は自分のスピリチュアルな作品はまだ世間に評価されない、と感じ「死後20年は作品を見せないでほしい」と甥っ子に頼んだのである。約1300点の絵画と、手書きとタイプされた26,000ページを超える124冊のノートを渡した。

その後、彼女のスピリチュアルな作品群が発見され、かつ美術史家によってカンディンスキーよりも早く抽象絵画に取り組んでいたことが解明された。

それからさらに2、30年ほど経過し、2013年にストックホルム美術館が個展を開催。これに100万人が来場した。この展覧会は世界各国で巡回し「抽象画の始祖」として名が広まるようになる。

また2018~19年のニューヨーク・グッゲンハイム美術館での回顧展では、同館史上最高の約60万人が来場。大きな話題を呼び、世界的に注目されるようになった。

日本では2025年3月~6月に展覧会が開催

グループ X、No. 1、祭壇画、1915 年

さて「スピリチュアル」と聞くと、ちょっと身構えてしまう人もいるかもしれない。科学的で合理的な思考が主流の現代において、霊的なもの、目に見えないものを信じることは、一種のタブーのように扱われがちだ。

しかし、考えてみてほしい。エジソンの白熱電球だって、最初は目に見えないアイデアにすぎなかった。1879年、ちょうどアフ・クリントがスピリチュアルにハマり始めた時期にできた産物だ。

飛行機も、インターネットも、スマホも、かつては「ありえない」とされた発想の産物だった。私たちの世界を変えたものは、常に目に見えない力から生まれてきたのだ。

ヒルマ・アフ・クリントもまた、そうした「見えないもの」の力を信じた一人だ。彼女は亡き妹を想いながら、霊的な世界に耳を傾け、絵画として表現した。そして、それが結果的に、誰よりも早く抽象絵画の扉を開くことになったのである。

「この作品は、私の死後20年間は公開してはならない」は、彼女自身がどれほど自分の作品が時代を先取りしていたかを理解していた証拠だ。しかし今、世界はようやく彼女の芸術の真価を理解し始めている。

そして、そんなヒルマ・アフ・クリントの展覧会が2025年3月4日(火)~6月15日(日)に、東京国立近代美術館で開催される。

彼女の作品を前にしたとき、あなたはただの絵画としてそれを眺めるだろうか? それとも、100年以上前の彼女が、未来の私たちへ残した「見えないものの力」に、何かを感じるだろうか?

きっと、ヒルマ・アフ・クリントは私たちに「目に見えないものを、信じることができるか?」と問いかけている。

【今作品を見るなら・・】
「ヒルマ・アフ・クリント展」
日時:2025年3月4日(火)~6月15日(日)
時間:10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00)入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(ただし3月31日、5月5日は開館)、5月7日
場所:東京国立近代美術館
住所:〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3−1
公式サイト

▼抽象画の母が描く壮大な作品の数々 – 東京国立近代美術館「ヒルマ・アフ・クリント展」

ART/DESIGN
抽象画の母が描く壮大な作品の数々 – 東京国立近代美術館「ヒルマ・アフ・クリント展」
Mar 27, 2025
  • Text : ジュウ・ショ
  • Edit : Seiko Inomata(QUI)

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