「“西洋美術の常識”をアップデートした印象派の代表」クロード・モネ|今月の画家紹介 vol.4
第4回はクロード・モネについて紹介。いまだに日本での人気が超高く、毎年のように展覧会が催される「印象派」の立役者として知られている画家だ。美術好きでなくとも知っているモネだが、いったい彼の何がすごかったのか。当時の時代背景と一緒に紹介していこう。
印象派を代表するフランスの画家。(1840年11月14日 – 1926年12月5日)
代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になった。
似顔絵を描き人気者に
クロード・モネは1840年にパリの食料品店の次男として誕生する。4歳のときにノルマンディ地域のル・アーブルという港町に引っ越し、18歳までここで暮らした。
ル・アーブルという町はセーヌ川河口の大西洋岸に面した港町。とても自然豊かで活気がある場所だ。少年期のモネにとって学校は「つまんない場所」という感じで、よくサボっていたそう。そんな10代の彼が勉強の代わりに楽しみを見いだしたのが「絵」だった。
といっても、のちの風景画はまだ登場しない。当時、描いていたのが似顔絵(カリカチュア)で、町の人や著名人を描いた作品はいまでも残っているが、既にめっちゃ上手い。
Caricature of Léon Manchon シカゴ美術館蔵 クロード・モネ
観光地の似顔絵師とかにお願いしたら、ものすごく誇張した表現で絵を描いてくれると思う。あんな感じの似顔絵を「カリカチュア」といって実はすごく歴史が深い表現だ。
フランスでは1830年代にシャルル・フィリポンが「シャリバリ」という日刊紙を発刊。そこで似顔絵師のオノレ・ドーミエに当時のフランス王、ルイ・フィリップのカリカチュアを描かせるなど、国民的人気だった。
正直「いじりすぎだろ!」ってことで国から罰金・懲役刑を食らったりして、すぐ廃刊になるが、モネはこれらの影響を受けていたのかもしれない。
こうした似顔絵はル・アーブルの人たちにウケて、モネは10代から地元で人気の似顔絵画家になる。そんな似顔絵を偶然見つけたのが、ウジェーヌ・ブーダンという画家。日本ではあまり知名度がないが、のちに「空を描かせたらブーダンが最強」といわれるほどの風景画の名手だ。
当時35歳のブーダンは18歳のモネに「君の似顔絵は本当に上手い。でもね、もっと目を鍛えたほうがいいぜ。一緒に外で油絵やらない?」と戸外制作に誘う。
しかし、モネは「いやいや。俺、お小遣いがほしいだけなんで。風景とかホントめんどくさいんでやめときます」みたいな感じで断っていたそう。ちょっと大物すぎる……。
しかしブーダンは「いや絶対風景やったほうがいいって!行こうよ!」と誘い続け、最終的にモネは戸外制作で風景画を描いてみることにした。このとき、モネは風景画のおもしろさに気付き『ルエルの眺め』をル・アーヴル市展覧会に出品している。
この作品も18歳とは思えないほどの写実度だ。同じ学校の美術部にこのレベルの作品があったらヒーロー間違いなしである。
ここからモネは本格的に画家を志し、パリに行くことを決心した。
パリでのちの印象派の画家と出会う
さて画家あるあるだが、モネが画家になるためにパリに行くことに父親は猛反対する。しかしモネが似顔絵で数十万円ほど貯金していたことを知ると「え、うちの子すごいじゃん」と、パリ行きを了承したらしい。
ル・アーヴルから出たモネは、ブーダンの師匠・トロワイヨンを訪ねた。トロワイヨンからは「まずルーブル美術館でひたすら模写してちゃんとデッサンの練習しなさい」と言われる。
モネはこうした”アカデミックな勉強”がめちゃくちゃ嫌いなので「えー、嫌だな。もっと自由に描かせてくれよ」と、アカデミー・シュイスへの入学を決めた。
アカデミー・シュイスは当時のフランスの美大のなかでは、かなりゆるゆるでかつ学費も安いのが特徴。そのため、割と革新的な画家を多く輩出している。先述したカリカチュアのオノレ・ドーミエもシュイス卒。近代画家の父、ポール・セザンヌも卒業生だ。
ただ翌年に徴兵でアルジェリアに行くことになり、いったん制作を休んでアルジェリアに渡っている。その翌年にチフスのためル・アーヴルに戻り、叔母が納付金を払ったため実質1年で徴兵は終わった。
しかしアルジェリアの風景はモネにとって衝撃だったらしく、のちに「俺が印象派に目覚める萌芽はアルジェリアの光と色彩にあった」と回想している。
帰国したル・アーヴルではヨンキントという画家と出会う。モネが「いちばんの師匠」というほど影響を受けた人物で「印象主義の先駆者はヨンキントだ」という評価も受けている。うつ病もちのアル中だったが、ゾラやボードレールといった文学者からも称賛を得ていた人物だ。
モネはヨンキントやブーダンとの数カ月間の交流で「見た風景をそのまま描くことって最高だよね」という考えを深めていく。
モネは数カ月間、ル・アーブルでヨンキントとブーダンと交流した後、22歳でパリに戻り、シャルル・グレールのアトリエに入った。当時、グレール先生のアトリエは「パリで最も有名」くらいの場所だった。
モネはここでルノワール、シスレー、バジルなどの画家と出会う。のちにバジルは戦争で亡くなるが、ルノワール、シスレーは一緒に印象派を牽引していくメンバーだ。
グレールのアトリエは「印象派の出発」にすごく重要な場所だ。というのも、グレール先生はいわゆる古典主義の人で、例えばモデルを描かせるときも「そのまま描いたら、たくましくなっちゃうからNGだよ。ちゃんとほっそり美しく頭のなかで再構築してから描いてね」という方針だった。
しかしモネをはじめ、ルノワールやシスレーなどの生徒たちは「そんな描き方はもう古いよな。見たままをキャンバスに落とし込むのがいいんじゃん」という感じで反発していたわけだ。かなりパンクである。これぞロックンロールである。
じゃあなんでみんなグレール先生のアトリエに来たのか。それはグレール先生が週一程度しか顔を出さず、基本はやりたい放題だったからである。あとグレール自身が若いころお金に苦労したから、という理由で学費が超安かったのだ。
こういった奇跡的な環境下でモネをはじめ、ルノワール、シスレー、バジルは「頭で考えて線を再構築する理性的な古典主義なんて嫌だ。見たままを感覚的に描いた作品をつくろう」という考えを深めていき、みんなで戸外制作をするようになった。
モネはもはや「ちゃんとグレール先生のところに通わないと家族が仕送りしてくれないから」的な感じでしか出席していなかったらしい。留年しまくりの軽音楽部の大学生みたいなスタイルである。
マネへの憧れとサロンへの失望
そんななか、1863年、モネたちの胸を撃ち抜くような事件が起こる。エドゥアール・マネの「草上の昼食事件」だ。これは1863年にナポレオンの指揮で開催された「落選者展」で起きた。
そもそも「落選者とは何なのか」を簡単に紹介する。この連載では何度か紹介したが、当時のパリでは「サロン・ド・パリ(通称・サロン)」という、国営の展覧会が毎年開催されていた。「サロンに通らなければ絵で飯は食えない」というくらいパワーのあった催しだ。
サロンは古典主義的な絵を好む。審査に通り、出品するためには「見たまま」ではなく「ちゃんと見たものを頭の中で再構成して美しく描く」という画風が必要だった。先述したグレール先生やトロワイヨンの教えは、サロンを意識したものだったわけだ。
しかし1863年のサロンの審査はむちゃくちゃ厳しく、3,000点以上の作品が落選した。これに画家たちは「厳しすぎるだろ!」とマジギレ。釈明のため、当時の皇帝・ナポレオンは「落とした人だけの展覧会をやるから、いったん落ち着いて」と「落選者展」を開いたのである。これはサロン本展以上に話題となり、大勢のブルジョワが訪れた。
そこで最もスキャンダルを呼んだのがマネの『水浴(のちに『草上の昼食』に改題)』だ。
⦅草上の昼食⦆1863年 オルセー美術館蔵 エドゥアール・マネ
中産階級の男二人と裸体の娼婦がピクニックをしている。ここでスキャンダルが起きた原因は「現実世界の女性の裸体を描いたから」である。当時はこれがタブー中のタブーだった。女性の裸体を描いていいのは「宗教画・寓意画(ギリシャ神話など)」に限られていたのである。
しかしマネはあっさりとその禁忌を破ってみせた。しかも娼婦は割と挑発的なポーズでこちらを見ている。この作品に観衆は「はいアウト。これ完全にアウトですー!ハレンチすぎまーす!」とレッドカードを切りまくり、ナポレオンも「ちょっとこれは下品だな」と苦言を呈したそう。簡単にいうとマネは大炎上したのだ。
一方で「古典主義に一石を投じた」ともいえるこの作品に、モネやルノワールは「これだよこれ! 見たままを描くのって最高じゃん!」と大興奮。モネは1865~1866年にこの作品のオマージュである『草上の昼食』を制作した。巨大すぎて完成しなかったが……。ちなみにマネはモネの作品に寄せる形で1867年に『水浴』を『草上の昼食』に改題している。
モネはこの時期、サロンで見事に入選を果たしている。1865年には『オンフルールのセーヌ河口』などで、1866年には『緑衣の女』で入選した。もっとも、この時期からサロンの選考委員にコロー、ドービニーといった「ちょっと攻めた表現が好きな画家」が入ったため、審査方針がちょっと変わってきたことも味方した。
ちなみにマネは1865年に『オランピア』でサロンに入選。この作品で懲りずに娼婦を描き、草上の昼食以上のスキャンダルを起こし「なんだこの下品なメスゴリラは!」という批判もあった。言い過ぎだろ、と思うが、それほどまでに当時は革新的だったわけだ。
当時、マネはパリの有名人、モネは無名の新人だ。当時のパリ市民はマネとモネがごっちゃになっていたらしく「新作見ましたよ~! あの緑のスカートの作品!」「いやあれ私じゃないから。モネだから」みたいなやり取りもあったらしい。
モネはこのままサロンの常連になるかと思われたが、1869年、1870年は2年連続で落選。思うような結果は得られなかった。
特に1870年に出品した『ラ・グルヌイエール』は仲良しのルノワールと並んで描いた作品だ。当時、2人は水面に反射する太陽光の表現を極め続けていた。
⦅ラ・グルヌイエール⦆1869年 メトロポリタン美術館蔵 クロード・モネ
これはミレー、ドービニーといった画家に強烈に支持されるも落選。ドービニーは「この傑作が入選しないんなら俺もう辞める」と審査員を辞任している。この作品は「印象派的画風のスタート」ともいわれる作品だ。
印象派展の開催
1869、1870年の落選で完全にサロンに失望したモネは、サロンへの出品をいったん止めることを決めた。私生活では1870年にパートナーのカミーユと結婚。1873年には小さなボートを買って、アトリエ舟として使うようになった。マネはものすごくほっこりするモネとカミーユの一枚を描いている。
⦅アトリエ舟で描くクロード・モネ⦆ 1874年 エドゥアール・マネ
このころのモネは画商もついて若干経済的余裕を手にしていた。しかしサロンに対する不満は消えていなかった。行政の感覚で画家の発表の場所が限られることに疑念があったわけだ。
そこでピサロ、ドガ、ルノワールなどと「もう俺らで展覧会を催しちゃおうぜ」と考えるようになる。そこで生まれたのが「印象派展」だ。ここではじめて「印象派」という言葉が生まれたわけである。
モネたちは事前に出資会社を設立し、運営資金を保持するためのルールを決めたうえで、1874年に第一回印象派展を開催した。なんとサロンの日程とかぶせた、というからかっこいい。やはりモネはパンクロッカーみたいな魂を持っている。
モネはこの展覧会で、代表作ともいえる『印象:日の出』を出品した。
しかし結果はボロボロ。1カ月で来た観客数は3500人程度(サロンは40万人)で、そのほとんどが「なんか変な事やってるらしいぞ」と嘲笑しに来た客だったそうだ。
冒頭で紹介した「シャリバリ」に、批評家は「文字通り、印象しかないフワッとした展覧会だった。サボりすぎだよね」みたいな記事を書いた。
経済的な成功もしなかったことから、モネの生活はだんだん苦しくなる。しかし彼はマネから資金援助をしてもらいながら、1886年まで合計8回の印象派展を開催することになる。
1876年の第2回印象派展では奥さんのカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を出品。モネ自身は気に入ってなかったが、高値で売れた作品である。
モネの浮世絵好きは有名で、彼は喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重などの作品を200点以上も持っていた。
1877年の第3回印象派展では『サン=ラザール駅』の連作などを出品。特にこの連作は批評家から高評価を得ている。印象派展はだんだんと嘲笑の対象ではなく、評価を受けるようになっていくのだ。
しかし印象派展の売れ行きは伸びず、モネの生活は困窮したままだった。カミーユの体調が悪くなったり、パトロンが破産してしまったりと、だんだんモネは追いつめられてしまう。
絵が売れないのは印象派のメンバーも同じ。ついにルノワールは1878年にサロンに応募し、しかも入選する。それに対し、ドガが「おい!権威に屈服するのかよ」と反論し、印象派のメンバーはだんだん仲が悪くなってしまう。
1879年には第4回印象派展が開催されるが、もうモネはぜんぜん乗り気じゃなかった。「印象派展をやってるから、悪評が広まって絵が売れないんじゃないか」とさえ考えていた。そんななか同年に奥さんのカミーユが死去。モネは『死の床のカミーユ』を制作している。
また親友・ルノワールはこの年もサロンで入選し、経済的にも大成功を収めた。それを見てモネは1880年についにサロンに出品し入選する。また同時に第5回印象派展への出品を断った。
第4回印象派展から実質主催者となっていたドガは「モネこの野郎! 裏切りもの!」と批判し、これで実質印象派グループは解体されることになる。
モネが印象派と決別した1880年から1881年に、彼は「個展の成功」「画商との契約締結」などで経済的に安定した。なんとも世知辛いが、印象派を離れてからモネは成功を手にするようになる。
「同じ風景でも印象が違う」“瞬間”を描いた連作時代
その後、印象派展は第8回まで開催されるが、モネは第7回にしか出品していないし、これも画商の顔を立てるために参加しただけだった。「経済的に安定したし、もういいかなぁ」みたいな感じだ。
1886年、モネが46歳のころに開催された第8回印象派展には、ピサロの紹介で新印象派と呼ばれるスーラやシニャック、ゴーギャンといった若い革新的な画家が参加する。しかしモネは「こんなの印象派じゃないから、彼らが出るなら俺は辞退する!」と断った。
若い画家たちはモネをカリスマとして見ていたのだが、印象派の表現が変わっていくことを許せなかったのである。
そんなモネは40代後半も順調に作品を売りながら制作している。ファン・ゴッホの弟である画商・テオドルスとも取引をしている。1889年、オーギュスト・ロダンとの2人展では、馴染みの画商ではなく、あえて競売にかけるなど、40代後半のモネは意外とビジネスマンっぽい一面も見せるようになるのがおもしろい。
そんなモネは40代後半、50代と「連作」を描くようになる。北斎の「富嶽三十六景」などの影響を受けているともいわれる。例えば最初の連作が1890年から開始した「積みわら」シリーズだ。25点もつくっている。
また翌年からは「ポプラ並木」のシリーズを23点制作した。
また「ルーアン大聖堂シリーズ」は33作にも及ぶ。
その後、晩年期に描き続けたのがモネの代名詞ともいえる「睡蓮シリーズ」である。
モネは自宅の庭に池と太鼓橋をつくり、そこに睡蓮を植えた。この庭は日本風なのが特徴。モネはどこまでも日本が好きだった。
睡蓮は1898年から1900年の第1シリーズと、それ以降の第2シリーズに分けられる。第1シリーズでは太鼓橋と睡蓮、しだれ柳がよく描かれているのが特徴だ。構図は同じだが光の変化で色合いが大きく違う。
1901年にモネは池の拡張工事をおこなう。それ以降は太鼓橋はあまり描かれず、水面を大きく描くようになった。これが第2シリーズの特徴だ。
晩年期のモネは水面の光と、睡蓮の景色に取りつかれていたらしく、1914年には睡蓮を描くための巨大なアトリエを建てている。
⦅制作中の「睡蓮」の前に立つモネ⦆ クロード・モネ
後期は視力低下により、絵の具の色も判別できないような状態であり、モネ自身が制作中の絵画を「こんなの見せられない!」と破壊していたため、あまり作品が残っていない。
しかし最期までモネは睡蓮を描き続け、1926年、86歳で息を引き取った。最期の仕事はパリのオランジュリー美術館に収納されている。巨大な睡蓮の絵だ。
理論でなく「感覚」を信じて描いたモネの“目”
モネはこういった言葉を残している。「私は理論を嫌ってきた。自然を前に、移り変わる効果に対する印象を正しく表現しただけだ」。
印象派の運動は、美術史にとって「革命」だった。それまでのサロンが好む理性的でアカデミックな作品を嫌い、自分の目で見た自然の一瞬をそのままキャンバスに落とすことに神経を注いだ。
例えばルノワールの傑作『陽光の中の裸婦』は、公開当時「肌が腐敗してますよこれ」と酷評された。
⦅陽光を浴びる裸婦⦆ 1876年 ピエール=オーギュスト・ルノワール
しかし違う。実際にはこの色合いに見えたのだ。肌に反射した草木を通る光を、そのまま表現したのである。「ポストは赤いから赤!」「カラスは黒いから黒!」ではない。モネをはじめ、印象派の作品を見ると“世界がどんな色でできているか”を、あらためて見つめ直したくなる。
また印象派は作品そのものはもちろん、その精神性もかっこいい。
当時サロンがメジャーなJ-POPシーンだとすると、印象派たちは地下のライブハウスでひずみの効いたギターを振り回してるパンクバンドだ。権威に迎合するのではなく、自分たちの表現を崩さずにメジャーシーンを覆そうと考えたわけである。
その結果、サロンは1880年に国家主催から民間主催に切り替わった。また1884年からはアンデパンダン展という、無審査の展覧会が開催されるようになる。
また、モネやルノワールは世界各国の画壇から高い評価を受けるようになり、経済的にも大成功した。印象派展は途中で空中分解したが、彼らの感覚的な作品群はついに革命に勝利したのである。
【作品を見るなら・・】
モネ 睡蓮のとき
会場:国立西洋美術館[東京・上野公園]
住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園7-7
会期:2024年10月5日[土]-2025年2月11日[火・祝]
時間:9:30 〜 17:30(金・土曜日は21:00まで)※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日、10月15日[火]、11月5日[火]、 12月28日[土]-2025年1月1日[水・祝]、1月14日[火](ただし、10月14日[月・祝]、11月4日[月・休]、2025年1月13日[月・祝]、 2月10日[月]、2月11日[火・祝]は開館)
公式サイト
- ライター : ジュウ・ショ