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人生の残酷さと儚さ、そして少しの希望 │ 映画「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」レビュー

Sep 20, 2024
大胆なスタイルで世界中を魅了していったガリアーノの栄光の道程を、デビューから各ブランド時代の超豪華なコレクションを収めた貴重なアーカイブ映像と共に振り返る本作。ひとつの映画のように演出される数々のステージの裏側を語るのは、トップモデルであるケイト・モスやナオミ・キャンベル、などの錚々たる面々と、「VOGUE」誌の伝説的な編集長アナ・ウィンターをはじめとした、著名なファッション編集者や評論家たち。さらに、ガリアーノを診断した精神科医、今も心の傷が癒えないという事件の被害者にもカメラを向ける。そこからは、現代の重大な問題の一つ、 “キャンセルカルチャー”も浮かび上がってくる。

2024年9月20(金)より公開のヒューマン・ドキュメンタリー映画「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」を、ヴィンテージ古着専門店「Archive Store」のマネージャー鈴木達之がレビュー。

人生の残酷さと儚さ、そして少しの希望 │ 映画「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」レビュー

Sep 20, 2024 - FILM
大胆なスタイルで世界中を魅了していったガリアーノの栄光の道程を、デビューから各ブランド時代の超豪華なコレクションを収めた貴重なアーカイブ映像と共に振り返る本作。ひとつの映画のように演出される数々のステージの裏側を語るのは、トップモデルであるケイト・モスやナオミ・キャンベル、などの錚々たる面々と、「VOGUE」誌の伝説的な編集長アナ・ウィンターをはじめとした、著名なファッション編集者や評論家たち。さらに、ガリアーノを診断した精神科医、今も心の傷が癒えないという事件の被害者にもカメラを向ける。そこからは、現代の重大な問題の一つ、 “キャンセルカルチャー”も浮かび上がってくる。

2024年9月20(金)より公開のヒューマン・ドキュメンタリー映画「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」を、ヴィンテージ古着専門店「Archive Store」のマネージャー鈴木達之がレビュー。
Profile
ジョン・ガリアーノ

1960年、イギリスの植民地、ジブラルタル生まれ。セント・マーチンズ芸術大学で学び、84年にモード科を首席で卒業。革新的な卒業制作「Les Incroyables “レ・アンクロワイヤーブル”」を発表し、一躍注目を集める。85年、ロンドンコレクションでデビュー、高い評価を得た。その後はあまりにも革新的過ぎて「売れない服」という烙印を押され苦戦したが、95年、ジバンシィが自身のブランドを引退。後任デザイナーとして、ガリアーノが大抜擢され、英国人デザイナーとしては初めてフランスのオートクチュールメゾンを率いた。続いて96年10月、ジャンフランコ・フェレの後を継いで、クリスチャン・ディオールのデザイナーに就任。ガリアーノの活躍もあり、ディオールのプレタポルテ部門の売上げは驚異的に伸びた。2011年2月、パリのカフェで隣に座ったカップルに対して反ユダヤ主義的発言をし、クリスチャン・ディオールおよび自身の名を冠したブランドを解雇される。現在は、2014年からメゾン・マルジェラのクリエイティブ・ディレクターを務めた。

ジョン・ガリアーノ。この名前を耳にした多くの人は、「メゾン マルジェラ(Maison Margiela)」のクリエイティブ・ディレクターとして、10年に渡って活躍し、ブランドの発展に大きく貢献した、“成功者としてのガリアーノ”を思い浮かべるだろう。

2024年9月20日から公開される本作は、そんな“現在”のモードシーンで最前線を駆け抜ける『天才デザイナー』の“過去”にフォーカスしているドキュメンタリー映画だ。華やかなファッション界において、ジョン・ガリアーノ(以下:ガリアーノ)という人物がどのようにして形成されていったのかを、幼少期から学生時代、そしてファッションデザイナー以降の歩みを通して、丁寧に、そして驚くほどリアルに、感情的に描いている。

何故、そこまで感情的に描く必要があるのだろうか。それは、ドキュメンタリーとしてガリアーノの半生を描く上で、重要な“ある事件”と正面から向き合う必要があるからだ。当時、“ある事件”をニュースで知った人にとっては、実際に裏側では何が起きていたのか、その時一体ガリアーノはどのような心情だったのかをこの映画を通して知ることになる。

作中では、ガリアーノ自身が、当時を振り返りながら、時に言葉を詰まらせながらも、ありのままをさらけ出して答えている。この映画は、ガリアーノのパーソナルなストーリーを知り、ガリアーノというデザイナーの解像度を上げるだけでなく、メゾンブランドを中心としたファッション業界の裏側、つまりファッション史をリアルに紐解く上で、貴重なアーカイブ映像なのだ。

そこで、“現在”のガリアーノに大きな影響を与えた“ある事件”にフォーカスを当てる前に、ガリアーノというファッションデザイナーが、一体どのような人物なのかを掘り下げていく。
ケヴィン・マクドナルド監督による「現代社会における贖罪」の進化についての視点を持ちながら、映画と併せて本記事を読んでいただくと、より包括的に理解が深まるように、今回はガリアーノのファッションキャリアにおける事象メインでまとめてみる。映画に更に興味を抱いていただくためにも、筆者としてはファッション史、アーカイブの視点でガリアーノの全体像を理解してもらいたいと考えている。

まず、ガリアーノは1960年に、ジブラルタルというイギリスの海外領土で生まれた。イベリア半島に位置するジブラルタル出身のガリアーノは、6歳の時にイギリス本土のロンドンに移住した。生まれがジブラルタルという土地柄や、母親がスペイン人ということから、ラテンの情熱的な性格を伺うことができる。

ランウェイショーの最後に、自分自身がモデル並みに着飾って演出する表現力は、ファッションデザイナーの中でも異質な存在だ。そんなガリアーノは、ロンドンのセント・マーチンズ芸術大学に入学し、1984年に首席で卒業。卒業の年に制作されたコレクションがガリアーノの注目を一気に集めるきっかけとなった。論文とコレクションを発表したのだが、論文テーマは「デザインと型についての考察」、そしてコレクションテーマは「フランス革命後の装い」。ファッション業界から注目された伝説のコレクションは、全部で6点のみ発表され、「アンクロワイヤブル・スタイル」というフランス革命後のモボ(洒落者)の装いをイメージして作られていて、これはのちのガリアーノの制作原点とも言える作品だ。

更に注目を加速させた出来事として、ロンドンの名店『ブラウンズ』のバースティン夫人の目に止まり、6点すべてを買い上げ、ブラウンズのショーウィンドウに飾ったことが話題になった(ディスプレイの着付けもガリアーノが担当)。学生の卒業コレクションが名店ブラウンズのショーウィンドウに飾られたことも異例だが、すべての作品がすぐに売れたことで、更にガリアーノが一気に注目の若手デザイナーに躍り出た。その後、1986年春夏からロンドンコレクションに自身名義のブランドで参加した。同時代的に見て比較してみると、マルタン・マルジェラ(以下:マルタン)ですら、アントワープ王立美術アカデミー卒業後、自分から売り込んでジャン・ポール・ゴルチェのアシスタントにつき、3年の修行を経て、卒業から約10年後の1989年春夏に自身名義のブランドでコレクションデビューしているので、如何にガリアーノがエリートとしてキャリアをスタートさせたかということがわかる。

マルタンに続き、ガリアーノも1989年秋冬からパリコレクションで発表し、1991年にはパリコレクションの正式メンバーに加入したタイミングでパリに移住。スポンサーの交代や資金問題などで、1年のブランクを経て発表された1994年春夏コレクションで、再びパリコレクションにて復活を遂げた。1990年代前半のグランジのムード、ユースカルチャーの熱気を帯びたファッション界において、再びクチュリエのテクニック、エレガンスを再提示することで、ポスト・グランジ以降のモードを明確に示したのが、まさにガリアーノなのだ。デコンストラクティブで破壊的なファッションから、服飾史におけるオートクチュール文脈のエレガントなスタイルを、モダンに再解釈しアップデートしたスタイルを提示したことは、のちのモード界における1990年代後半の若手デザイナー起用劇に繋がっていく。その布石が、1996年春夏からのジバンシィのデザイナー就任だ。2シーズンのみの展開だったが、ジバンシィ時代に、LVMH会長のベルナール・アルノー氏との出会いがガリアーノの人生を大きく転機させ、スターの階段を駆け上がっていくこととなった。

1996年クリスチャン・ディオールのデザイナーに就任。1997年春夏よりコレクションを発表。ディオールでの在籍は“ある事件”が起こった2011年までの約15年と、長きに渡って活躍をした。(ディオール時代も、自身のブランド「ジョン・ガリアーノ」も同時にコレクションを発表していたため、ディオールと合わせて年間32回のショーを行っていた)。

ガリアーノというファッションデザイナーは、根っからの研究者気質な側面があり、コレクションを創作する前には、図書館や美術館に行ったり、リサーチの時間を大切にしていた。卒業コレクションのテーマからも見受けられるが、ガリアーノはファッションや美術の歴史、オートクチュールやメゾンの歴史などを勉強し、歴史からクリエーションの本質ともなる基礎的な事柄、クラシックな要素を大切にしている。ディオールのデザイナーに就任した時には、創業者やメゾンへの敬意を込めて、ハウスの資料室で徹底的にディオールの仕事を研究したというエピソードもある。

また、ガリアーノはただの歴史の焼き直しではなく、歴史と現代を融合させ、新しい形を常に創造している。こういった意味では、デコンストラクティブな側面もあるのだが、あくまでもエレガンスを現代版に再定義しているのがガリアーノのクリエーションの本質と言える。特に印象的なのは、1997年春夏のクリスチャン・ディオールのデビューコレクションだ。ディオール創立50周年のメモリアルな年に、ニュールックの代表作である“パール”を1997年版にアレンジしたり、パッドを入れたバスクジャケットや、アール・ヌーボーのSラインなど、クラシックを現代版にアップデートしていた。50周年記念にデビューする辺りも、ガリアーノのスター性、カリスマ性を感じる。1990年代において、ガリアーノは時代の寵児であり、ファッションがアップデートするためにも、時代がガリアーノを求めていたのかもしれない。それほどにガリアーノは、ファッション史において重要なキーパーソンなのだ。

ここで、冒頭の“ある事件”について話を戻してみる。一体どのような事件だったのか。それは、ディオールのデザイナーとして活躍している最中、パリ市内のカフェで、酒に酔ったガリアーノが、近くに居合わせたカップルに「反ユダヤ主義的な差別発言」を浴びせたことで、その後有罪になった事件だ。これは当時、カフェで暴言を吐くガリアーノの動画が拡散されたことで、瞬く間に世間に知れ渡った。結果、ガリアーノは、ディオールを解雇され、一度デザイナーとしての仕事を失い、ファッション業界から姿を消した。

映画では、当時の映像が生々しくリアルに描かれている。もちろん差別発言や暴言は擁護されるべきではないが、当時のガリアーノの過酷な仕事環境、精神状態、それに伴う薬の影響などを考えると、如何にメゾンブランドのデザイナーが、責任や重圧と戦いながら、新たな作品を作り続けていることへの異常さを感じてしまう。全てを失ったガリアーノは、3年間の時を経て、ようやくまたファッション業界に復帰した。創業者マルタン・マルジェラの後継(マルタンは2009年春夏で退任していて、その後はデザインチームが担当)として、2014年にメゾン・マルジェラのクリエイティブ・ディレクターに就任し、デザイナーとしての再スタートを果たした。

そこから10年が経ち、メゾン・マルジェラは業績を年々伸ばし続け、ガリアーノはブランドの発展に大きく貢献している。作中でも出てきたが、ガリアーノが、メゾン・マルジェラ2022年アーティザナルコレクションの制作に合わせて、「シネマ・インフェルノ」という演劇が一体化したインスタレーションを2023年に発表した。物語の内容を見ると、逃亡を続ける主人公カウントとヘンの心情は、きっと今でもフラッシュバックする過去に追われながら、自分と向き合い続けているガリアーノの本心が伺える。結局は、自分を苦しめるのは自分自身の心であり、抜け出そうとしてもなかなか抜け出すことは簡単ではない。映画を見終わった後残る余韻は、人生の残酷さと儚さ、そして少しの希望だ。

わたしたちが、日常において普段手に取るファッションアイテムには、このような様々な裏側のストーリーも存在している。当たり前に毎シーズン発表される新作コレクションの背景には、デザイナーやブランド関係者、生産に関わるすべての人たちのたくさんの喜びや苦労がある。改めて、我々はファッションが創造される背後を読み解き、クリエーションに対するリスペクトを持ちながら、ファッションと向き合う必要があると、映画を観て学ぶことができた。

 


ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー

2024年9月20(金)より、新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかロードショー

監督・プロデューサー:ケヴィン・マクドナルド (『モーリタニアン 黒塗りの記録』)
出演:ジョン・ガリアーノ ケイト・モス シドニー・トレダノ ナオミ・キャンベル ペネロペ・クルス シャーリーズ・セロン アナ・ウィンター エドワード・エニンフル ベルナール・アルノー

© 2023 KGB Films JG Ltd

『ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー』公式サイト

  • Text : Tatsuyuki Suzuki