横浜育ちのカルチャーミックスを引っ提げミラノへ向かう|CHILDREN OF THE DISCORDANCE 志鎌英明
初めてテーマを先に決めた2025-26年秋冬コレクション
—ブランドのクリエーションは立ち上げ時と現在で変化はありますか。
志鎌:以前はクリエーションのテーマは後付けすることもありました。10年ぐらい前からトレンチコートやデニムを解体して自分たちのオリジナルパターンに落とし込んで再構築するような服作りを始めたのですが、そういうクリエーションはテーマを先に決めにくいんです。
—解体、再構築という手法について周囲の反応はどうでしたか。
志鎌:当時はそういうアプローチを実践しているブランドが少なかったこともあって、特にファッションに敏感な海外の方たちから興味を持ってもらえるようになりました。<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>は日本よりも先に海外で広まったと思っています。
—海外というのはどこでしょうか。
志鎌:アジア圏が中心でした。最初に<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>を大きく取り上げてくれたのも、その当時にファッションメディアとして香港を拠点にしていた「HYPEBEAST(ハイプビースト)」のチームでした。
—2025-26年秋冬コレクションは「sand dust flavors(サンド ダスト フレーバー)」がテーマですが、こちらも後付けですか。
志鎌:これは先です。ブランドとしてテーマを決めてから服作りをしたのは初めてのことでした。最近アトリエを引っ越したのですが、そこが近所の店舗の影響で窓を開けることもできないぐらい砂塵がすごいんです。ずっと砂の埃だらけのような環境で服作りをしているような状況だったので、それをそのままテーマにしようと(笑)。
—テーマを先に決めたことで2025-26年秋冬コレクションの服作りはこれまでとは変化はありましたか。
志鎌:2025-26年秋冬コレクションのショーに関しては「今まででいちばん良かった」という声もあるぐらい好評でしたが、テーマが先にあるとその服を着る人物像など方向性が明確になるのでコレクションのストーリーが伝わりやすかったのかもしれません。後付けの場合は「あのアイテムも作っておけば」と思うこともありましたが、今回はそれもなかったので自分としてもいいショーができたと思っています。
セレクトショップからスカウトされバイヤー兼デザイナーに
—<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>といえばストリートカルチャーのミックス感ですが、志鎌さん自身はどのようなカルチャーに触れてきたのでしょうか。
志鎌:僕は生まれが横浜なのですが、その中でも治安があまりよろしくない地区で育ちました(笑)。ただ音楽、ファッション、車、バイク、スケートなどあらゆるカルチャーに触れるにはとても恵まれたエリアでした。僕が小学生の頃に最初に夢中になったのがスケートでしたし、ファッションへの目覚めもスケート仲間が着ていた<STUSSY(ステューシー)>のコートのかっこよさに衝撃を受けたことからです。それが小学5年生の時ですけど、その頃から現在まで自分が買った服はほとんどアーカイブとして手元に残しています。
—小学校5年生から服を残し続けてきたのは、将来はファッションデザイナーになろうと思っていたからですか。
志鎌:そういうわけではなくて単純に服が大好きになったんです。その頃の夢はプロサッカー選手でしたし、中学生になるとヒップホップにハマりました。高校進学の際はサッカーの強豪校からも声がかかったりしていたのですが、もう熱量としてはファッションや音楽の方が上回っていました。高校時代はバイトをして裏原ブランドの服を買って、レコードを聴いて、ラップをやって、それだけでしたね。
—ファッションを仕事とするきっかけは何だったのでしょうか。
志鎌:高校卒業後にファッションの専門学校に進学しました。きっかけといえばそこかもしれません。
—それはファッションデザイナーを目指す人たちの専門学校ですか。
志鎌:僕が選んだのはビジネス科でした。しかも専門学校での学びがファッション業界への道を拓いたわけでもありません。学業よりも原宿や下北沢、渋谷のキャットストリートでの遊びに夢中で、ファッション誌で僕のスナップショットが大きく取り上げられるようになったことである大手セレクトショップから「うちで働きませんか」とスカウトされたんです。その会社で新規事業を任されることになり2005年に原宿にセレクトショップをオープンさせて、国内外のブランドのバイイングと同時にオリジナルブランドも担当して服作りを始めました。
—服を作ったこともないのにオリジナルブランドを担当して戸惑いなどはなかったのでしょうか。
志鎌:とにかくファッションが好きだったのでこんな服を作ってみたい、着てみたいというアイデアは尽きることはなかったです。バイイングのためにかなりの数のブランドを見続けていたので生地や製法、ディテールなども自然と自分の中にインプットされていました。成功もありましたが、もちろん失敗もあって、すごく濃密な経験をさせてもらったと思います。
—セレクトショップの仕事は充実されていたようですが、そこを離れて自分のブランドを立ち上げたのは何か理由があったのですか。
志鎌:オリジナルブランドは会社からのミッションなので時には無理をしてでも服を作らないといけないこともありました。それにちょっと疲れてしまったんです。本当に作りたい服ではない、そしたら自分は何のために服を作っているのかと思うようになりました。それで古着のリメイクや加工、アレンジなどを友達と一緒に始めたのが<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>でした。
—自分たちが好きな服を作れるようになって楽しかったですか。
志鎌:完成した服は全部着たいと思うぐらい楽しかったです。売れそうな服を狙って作るということもないので後ろめたさもなかったです。ただ、初期は全く反応がなかったですね。それがSNSの普及から少しずつ波が変わっていって、最初にお話ししたようにアジア圏のバイヤーが買い付けてくれるようになりました。
100%ブランドのことだけを考え続けた命を懸けた服作り
—<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>の服作りというのは志鎌さんが体験してきたカルチャーが色濃く反映されているのでしょうか。
志鎌:もちろんそれはあります。例えば自分が興味がある音楽はヒップホップでも周囲にはテクノ好き、トランス好きがいて、趣味や嗜好は異なりますが交流によっていろんな音楽の知識が身についていきました。バイカーもアメリカンスタイルもいれば走り屋もいて、それぞれがファッションへのこだわりを持っています。そんな横浜での原体験はブランドのコレクションにエッセンスとして現れていると思います。
—「カルチャーのミックス感」というのはブランドを立ち上げる時からコンセプトとして存在していたのでしょうか。
志鎌:ブランド名に「DISCORDANCE」というワードを入れたいというのは友人とも話していたことでした。「DISCORDANCE」には不一致や不協和という意味があって、「子供の頃からみんなと同じ服は着たくない」という思いを込めて<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>としました。「それってどこの服?」って言われるような存在になりたかったです。
—<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>と近しいテイストはあまり見かけないので、そういう存在になっている印象です。
志鎌:自分としてはストリートファッションをやっているつもりはないんですが、海外のメディアが<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>を紹介するときは「ストリート」という単語は使われることが多いです。あとは「ラグジュアリー」と表現されることもあるのですが、それは2016年からニューヨークのファッションウィークで展示会をやっていたことでラグジュアリーマーケットのフォロアーが増えてことも影響していると思います。ただ、そのマーケットを拡大させるために展示会の拠点をパリに移したことが人生で最大ともいえる挫折につながるんですけどね。
—パリで何があったのでしょうか。
志鎌:まずニューヨークのバイヤーが展示会に足を運んでくれなくなり、すごく悔しい思いをしました。それはブランドに興味がなくなったというよりも忙しすぎてパリまで行く時間を作れないというのも理由だったのですが。そして<Name.(ネーム)>のデザイナーの清水則之さんに誘われて訪れた現地のショールームで井野将之さんの<doublet(ダブレット)>に出会いました。そこで目にしたのが<doublet>のブースに群がるバイヤーたちの姿で、そこだけセール会場なのか?と思うぐらいの混雑でした。
—志鎌さんは<doublet>のことはご存知だったのでしょうか。
志鎌:その時点では知りませんでした。知らなかったからこそ「あのブランドは何だ?」と強く興味を持ったんです。よく観察してみると街を歩いているおしゃれな人はみんな<doublet>を着ていました。当時はまだ存在していたセレクトショップの「Colette(コレット)」の1階のウィンドウも<doublet>がジャックしていました。それを見た瞬間に「自分には何かが足りていない、命を懸けて服作りをしないといけない」と思い知らされました。
—服作りとの向き合い方を考え直したということでしょうか。
志鎌: 100%ブランドのことだけを考える生活にしましたし、帰国したらすぐに「東京ファッションアワード2018」にもエントリーしました。世の中にはファッショニスタのアイコンとされるようなジュエリーやスニーカーがありますが、<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>もそれと同等の存在に押し上げることだけを考え続けましたし、SNSでの見せ方も意識するようになりました。
—見せ方を意識することでSNSでの反応に変化はありましたか。
志鎌:2018年のPitti Uomoで<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>のバンダナのパッチワークシャツのスナップを各国のファッションメディアが取り上げてくれたことでバイヤーからの問い合わせが急増しました。パリのショールームにもバイヤーが殺到するようになり、<doublet>を見にきたら<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>にも必ず立ち寄るようにもなりました。これまでは素通りだったんですけどね(笑)。
—それは見せ方が成功しただけではなく、志鎌さんの「命を懸けた服作り」の結果のような気もします。
志鎌:意識したのはとにかく削ぎ落とすこと、余計な服は作らないことです。海外のラグジュアリーブティックにディスプレイされている<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>を想像して、そこにハマるアイテムは何かを追求するようになりました。そこで辿り着いたのがシャツでもデニムでもコートでもパッチワークなどのアレンジを施したパワーのある一点物です。それをシグネチャーにするようになった2018年、19年頃からラグジュアリーブティックの新規アカウントも一気に増えました。
—2024年12月の2025-26年秋冬コレクションが日本で開催する最後のショーでした。ショーの拠点をイタリアに移すそうですがその理由は。
志鎌:2020年の6月から5シーズンほどミラノファッションウィークのショーにオンラインで参加したのですが、ミラノファッション協会の厚意で無料だったんです。なので<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>に絶えずオファーをし続けてくれた協会への恩返しというのはあります。あとは<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>は東京のトレンドよりも海外のファッションフリークにフィットすると思っているのでマーケットの主軸を海外にシフトしようと。イタリアにもブランドのファンがすごく多いです。
—<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>のような服はイタリアブランドにないですよね。あらゆるカルチャーのエッセンスが混在する世界観は唯一無二だと思います。
志鎌:こういうインタビューもどういう発想でこんな服が生まれるのか、それを解き明かしたいので頭の中を覗かせてほしいと言われることが多いです(笑)。
—QUIとしてもまさにそれがインタビューの本題でした。志鎌さんのクリエーションはどうやってスタートしているのか、そこにずっと興味がありました。
志鎌:日本でありながら異文化交流のような横浜で育ったことで<CHILDREN OF THE DISCORDANCE>のスタイルが生まれたのでそこはラッキーだと思っています。生きていくのは本当に大変でしたけどね(笑)
-2025-26年秋冬コレクション「sand dust flavors」プレイリスト
1. 夜猫族 – 一日目 (feat. noma, XakiMichele, tip jam, Tade Dust & Bonbero)[prod. TAXON]
2. FFFFFF – ZONE (feat. Leviryi & ANLELA)
3. tip jam – Life won’t wait (feat. Tade Dust)[prod. Lusoneo]
4. Bonbero – Billy mandy (feat. noma)[prod. ascii]
5. 夜猫族 – ぶっ生き返す (feat. XakiMichele, tip jam & Tade Dust)[prod. TAXON]
6. OBS -obsseision- – OVER WHELMING (feat. Bonbero & Tade Dust)[prod. ascii]
7. tip jam – Keep It Real
- Photography : Kaito Chiba
- text : Akinori Mukaino
- edit : Yusuke Soejima