「西洋美術史いちのハイパーマルチクリエイター」レオナルド・ダ・ヴィンチ|今月の画家紹介 vol.2
第二回は、『モナ・リザ』や『最後の晩餐』でおなじみの画家レオナルド・ダ・ヴィンチ。彼はいったい何がすごかったのか。なぜ高い評価を受けているのか。
「西洋美術史いちのハイパーマルチクリエイター」レオナルド・ダ・ヴィンチの人生と作品を見ていこう。
フィレンツェ共和国(現在のイタリア)のルネサンス期を代表する画家(1452年4月15日 – 1519年5月2日)
レオナルド・ダ・ヴィンチは、多彩な分野に顕著な業績と手稿を残したとされる。完全に解明されていない作品もあり、21世紀になっても幻と言われる作品も存在している。
画家という生き物は本来、好奇心の塊だ。気になるものをそのまま描く。または空想して描く。さらには好奇心が高まりすぎて、いよいよこの世に存在しないモチーフまでを描いたりする。大人になっても、どこかに子どものような無邪気な好奇心を持っている。それが画家のマインドセットの一つだと思う。
なかでもレオナルド・ダ・ヴィンチほど好奇心旺盛だった画家は少ないだろう。「わたし、気になります!」が多すぎて、もはや画家としての活動はいち側面でしかない。「え、人生何周目なの?」というくらい仕事をしている。「職業」という枠組みは、彼には通用しない。あえていうなら、彼は「画家」ではなく「研究家」である。
「なにか描いて」といわれ完全オリジナルのモンスターを描いた
レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月にイタリア・トスカーナ地方のヴィンチ村で生まれた。「ダ・ヴィンチ」は「ヴィンチ村出身」という意味なので厳密にいうと名字ともいえない。本当は「レオナルド」と呼ぶのが正しいが、ここでは一般的にいわれるダ・ヴィンチで統一しようと思う。
彼の父親のピエロは公証人という職業をしていた超モテ男。実の母はカテリーナという女性だが、すぐに別れてしまう。カテリーナの出自は長年の謎だが、2023年に「アジア出身の奴隷の女性なのではないか」という仮説が立ったりしている。
ダ・ヴィンチが5歳のころにピエロは、なんと16歳の娘と結婚する。父親は計4回結婚し、12人の子をもうけたという、ジローラモさながらのプレイボーイだった。
そんな波乱万丈な家庭で育ったダ・ヴィンチ少年は非嫡出子だったことから、満足な教育を受けられなかったそうだ。今の日本でいうと、国語算数理科社会みたいなフォーマットは受けられなかった。伸び伸びとした発想力が養われ、好奇心が生まれた背景には、この子ども時代の自由な環境もあるだろう。
ダヴィンチ少年の発想力が分かるエピソードがある。少年時代、父親のもとに農夫がやってきて「俺の楯に絵を描いてくれ」と言ったそうだ。父はダ・ヴィンチに「なにか描いてくれない?」と何気なく頼んだらしい。するとダ・ヴィンチ少年はその日から、いろんな昆虫や爬虫類を捕獲し、とにかく観察した。その結果、目から火が出て、鼻から煙を出し、口から毒を吐く化け物の絵を描いたのだそうだ。
これだけマンガやアニメが溢れた現代ならモンスターを描くのも分かる。しかし当時のコンテンツは宗教画くらいのものだ。ダ・ヴィンチ少年はいろんな生き物を頭のなかで完全にドッキングさせてオリジナルの化け物を描いてみせたわけである。とんでもない発想力だ。
父親も「あれ、うちの息子すごいのか…?」と驚いて、その絵を街に売りに行ったのだそう。そして、14歳のダ・ヴィンチを当時フィレンツェ最高の工房だったヴェロッキオ工房に弟子入りさせた。
20歳にして師匠・ヴェロッキオを超える
“弟子入り”と書くと「芸術家が弟子入り?学校は?」と思うだろう。15世紀、ルネサンス時代の芸術家のシステムを簡単に紹介しておこう。
まずこの時代に美大はまだない。では画家はどうやって技術を磨くのかというと、既に売れている画家の工房に入って「師匠、いちから教えてください」とアシスタントをするしかなかったわけだ。いわゆる徒弟制である。
そこで何年も下積みをして30代とか40代で独立……というのが王道ルート。当時は芸術家とかクリエイターという職業もなかった時代なので、とんでもなくきつかった。まずご飯を食べるのにもひと苦労だったわけだ。
しかし14歳でフィレンツェ最高の工房に入ったダ・ヴィンチはやはり天才だった。
20歳で師匠・ヴェロッキオと一緒に描いた『イエスの洗礼』という作品を見てほしい。
この作品のうち以下の二人の天使の左をダ・ヴィンチが、右をヴェロッキオが描いた。
この絵を観た30代後半から40歳くらいのヴェロッキオは、すでにダ・ヴィンチは自分を超えていると感じ、彫刻に専念することにしたといわれている。ヴェロッキオが彫刻をやりたかっただけ、という説もあるが…。
どちらにせよ、当時フィレンツェで最高峰の工房の先生が20歳のダ・ヴィンチの絵に驚愕したわけである。やはり当時からとんでもない才能だったのだ。
ルネサンスについて
その後もダ・ヴィンチは世界中の人々に500年以上愛されるような作品を次々描くが、その作品のすごさを解説するうえで、まずルネサンス美術の特徴を語らなければならない。
「ルネサンス」とは「文明復興」と訳される。英語でいうとRebornだ。では何の復興を目指したのか。それは、1000年以上前の「古代ギリシャ・ローマ」である。
現代でいうところの、Y2Kファッションの女子高生が急に十二単を羽織って「ねっとふりっくすなんぞ、いとつまらなし。速攻で解約して和歌でも詠もうぞ」と宣言するようなものだ。
ではなぜ、このような運動が起きたのか。それは「教会」から「市民」に力が移ったからだ。ルネサンスより前の13世紀ごろまで、ヨーロッパの社会で最も力を持っていたのは「キリスト教会」。美術のパトロンは「国」と「教会」であり、宗教画がメインだったわけだ。
しかし、キリスト教会が衰退し、市民は力を得た。特にフィレンツェという街は交易で栄え、なかでもメディチ家という一族は銀行をつくるなどで、多額の財産を得るに至った。フィレンツェの市民の一部が力を得ると、それに乗じて周りの市民も事業活動を行っていく。そうすると、先を走っていた一族の儲けが少なくなる。それを嫌った集団は「ギルド」という組織を作り「ギルド以外で新しい事業活動禁止」と新規を排除したわけである。
するとギルドは強くなり、最終的に「コムーネ」という自治国家までを作り上げる。こうした自治国家がルネサンス以前にあったのは1000年前の古代ローマの時代なのである。だから「古代ローマを見習おう!」ということでルネサンスが起きた。
つまりダ・ヴィンチが活躍したルネサンスの時代は「市民の時代」。想像の宗教画だけでなく市民のオーダーを受けてリアルな肖像画を描くようになったわけだ。空想上の出来事をオバーに描くのではなく、目の前のものをリアルに描写しようという風潮がメインストリームなのである。
美術の「写実」を極めたダ・ヴィンチの発明
ではここまでを知ったうえで、ダ・ヴィンチの作品に戻ろう。結論、ダ・ヴィンチはリアリストだという点でルネサンスの考え方にフィットしていた。とにかく自分の目で観たものしか信じない。そして自分の目で観たものを正確に表現したいという気持ちが強かった。その結果、彼は美術において重要な発明を残している。
まず彼が20歳のころに描いた『受胎告知』。彼がはじめて一人で描いた作品である。
マリアがイエスを身ごもったことを、大天使・ガブリエルが伝えに来るシーンだ。受胎告知はいろんな画家がモチーフとしているが、ダ・ヴィンチは一味違う。まずガブリエルの羽が全く天使っぽくない。完全に鳥類だ。ダ・ヴィンチは「羽といえば鳥か虫のしか見たことない」と思い、鳥の羽を描いたわけである。
ちなみに彼は「羽ばたき機」という飛行機の原型のようなものを作っている。このときにも、鳥を徹底的に観察し解剖して骨や筋肉の構造を研究した。
またこの作品の背景に注目してほしい。
山々が奥に行くにつれて白くなっていることがわかるだろう。これは現在「空気遠近法」という手法として知られており、ダ・ヴィンチが発明したものだ。傑作『最後の晩餐』でも用いられている。
考えてみれば、目の前のものを正確に描くうえで空気遠近法は当たり前なのである。人間の目で見ても、景色は遠くになるほど青が強くなり、霞みがかって見えるのだから。でも、そんな景色の特徴をはじめて捉えたのはダ・ヴィンチだった。
また名作『モナリザ』でも正確に描きたい欲求が伝わる表現がある。
彼女の輪郭に注目してほしい。いわゆる輪郭線がないことがわかるだろう。
例えばこの少し前の時代に描かれたボッティチェリの『ヴィーナス誕生』ではくっきりと輪郭線が描かれている。今でも多くの絵では輪郭線が確認できると思う。
しかし当然、現実の世界で輪郭線がある人はいない。ダ・ヴィンチは顔のラインを陰影で表現するために、絵の具を指でなぞってぼかしていた。この技法を「スフマート」と呼ぶ。彼の徹底した写実主義マインドがあったからこそ発明できたものだ。
画家としてのダ・ヴィンチはいち側面にすぎない
ダ・ヴィンチは美術において素晴らしい功績を挙げているが、これは彼の功績のほんの一部に過ぎない。実際、現存する彼の作品点数は15点くらいしかない。
彼は芸術家以外にも科学者、動物学者、植物学者、光学者、天文学者、航空エンジニア、軍事工学者、解剖学者などの顔があった。最高峰のレベルで膨大な仕事をしている。
例えば彼は30代に入ってから、戦車やヘリコプター、パラシュートなどの設計図を描いている。また動物を解剖し、骨や筋肉の動きを研究する、川の流れを研究して水車を設計する、土を彫って地質を研究するなど、分野問わずマルチすぎる仕事をした。
彼がこれらの仕事のために残したメモはなんと5万ページにも及ぶ。ちなみに、ダ・ヴィンチの手記はすべて鏡文字だったことは有名だ。「自分のアイディアを盗まれないための工夫だろう」「いや出版を考えていたからだ」「いやいや読字障がいがあったからなのでは?」など、さまざまな議論があるが、どれも確証にはたどり着いていない。
ただ「5万ページのメモがあった」という事実だけは確かだ。20歳から晩年までの47年の生涯で割っても1日約3ページペースという脅威的なインプット・アウトプット量である。とにかく毎日の生活で気になったことを片っ端からメモしていたわけだ。そしてダ・ヴィンチは「ただメモして終わり」ではない。即座に行動に移していたからこそ、常人の何倍もの仕事ができた。
まず好奇心の旺盛さ、そして想像力の豊かさ、また行動力の凄まじさ。この3つが奇跡的に合わさった結果、レオナルド・ダ・ヴィンチという人間ができたのであろう。
遠近法を意識した写実的な絵、また数学的分野での活躍を見ると、超左脳な人と思ってしまうが、実は右脳の感性的な部分もめちゃくちゃ強い。なんとも不思議な人なのである。
そんなダ・ヴィンチは67歳で没したが、最後に彼が還暦を過ぎてやっていた遊びを紹介させてほしい。彼は自宅の庭で見つけたトカゲに、別のトカゲのうろこ・ヒゲ・ツノを付けた”人工キメラトカゲ”を飼っていたのだそうだ。それを人に見せては驚かせて楽しんでいたらしい。とても悪趣味なお爺さんである。令和であれば、すぐに通報されそうだ。
しかし、私はこのエピソードを見る度に思う。これだけ多彩な仕事ができた背景には「何事も楽しんで取り組む」という、人間としてものすごく幸福な価値観があったのだろう。子どものように、ただ興味の赴くまま観察して研究してみる。
そんなダ・ヴィンチの人生観を知ってから作品を見ると、どことなくそんな無邪気さを感じられるかもしれない。
- Text : ジュウ・ショ