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描くこと、撮ること。その“眼”がとらえたもう一つのフジタ像 – 東京ステーションギャラリー『藤田嗣治 絵画と写真』展レポート

Aug 1, 2025
東京ステーションギャラリーにて開催中の展覧会『藤田嗣治 絵画と写真』は、20世紀前半の美術界を駆け抜けた画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)の創作と生涯を“写真”という視点から再検証する試みだ。

本展では「絵を描くフジタ」と並行して存在していた「写真を撮るフジタ」、あるいは「写真によって演出されたフジタ」という、多層的な姿が浮かび上がってくる。フジタの“眼”がとらえた世界。その軌跡を追いながら、私たちは「描くこと」と「撮ること」がいかに彼の芸術に結びついていたかを知ることになるだろう。

描くこと、撮ること。その“眼”がとらえたもう一つのフジタ像 – 東京ステーションギャラリー『藤田嗣治 絵画と写真』展レポート

Aug 1, 2025 - ART/DESIGN
東京ステーションギャラリーにて開催中の展覧会『藤田嗣治 絵画と写真』は、20世紀前半の美術界を駆け抜けた画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)の創作と生涯を“写真”という視点から再検証する試みだ。

本展では「絵を描くフジタ」と並行して存在していた「写真を撮るフジタ」、あるいは「写真によって演出されたフジタ」という、多層的な姿が浮かび上がってくる。フジタの“眼”がとらえた世界。その軌跡を追いながら、私たちは「描くこと」と「撮ること」がいかに彼の芸術に結びついていたかを知ることになるだろう。

展覧会は5部構成、“眼”をキーワードにフジタの創作の裏側を紐解く。
プロローグ:眼の時代
1:絵画と写真につくられた画家
2:写真がつくる絵画
3:画家がつくる写真
エピローグ:眼の記憶/眼の追憶

本展における中心的なテーマは「描く眼」と「撮る眼」の交差である。フジタは、自身の姿や旅の風景をカメラに収める一方で、写真を構図の素材として活用し、絵画へと再構築する創作を行っていた。つまり、彼の作品世界の背後には、写真という“もうひとつの視覚”が常に存在していたのである。

絵画と写真につくられた画家 ― フジタのセルフブランディング術

藤田嗣治という名前を聞いて、多くの人が思い浮かべるであろう姿がある。おかっぱ頭に丸眼鏡、口ひげ、そして猫を抱いたポーズ——それらはすべて、彼自身が周到に設計した“演出”であった。
本章では、フジタがどのようにして「画家としての自分」を、写真と絵画の両面から形づくっていったのかを解き明かしていく。
たとえば、1929年の《自画像》(名古屋市美術館蔵)は、金箔や鉛筆を組み合わせた複合的な技法で描かれ、聖人像のような気配すら漂わせている。一方、ほぼ同時期にドラ・カルムス(マダム・ドラ)によって撮影されたポートレート《藤田》は、画面越しの観者に向かって「これがフジタである」と訴えかけてくるようだ。

ドラ・カルムス 《藤田》 1925-29年頃 東京藝術大学所蔵

さらに、彼のアトリエでの生活を捉えたスナップ写真(撮影者不詳)も数多く展示されている。愛猫とくつろぐ姿、マネキンを自分に似せて配置したユーモラスな光景、妻・君代とともに映る1コマ……これらはいずれも単なる記録写真ではなく“フジタ”という人物像を織りなす視覚的要素として機能しているのだ。

当時のメディアがどのように彼を捉え、彼自身がどのようにそれを活用したのか。セルフプロデュースの巧みさと時代性が交錯する、極めて現代的なテーマが立ち上がる章である。

3階展示風景 ©︎Hayato Wakabayashi

写真がつくる絵画 ― カメラをスケッチブック代わりに

この章では、フジタが写真を単なる「資料」としてではなく、「構想」の一部として積極的に絵画制作に取り入れていた点に注目する。なかでも特筆すべきは、1930年代に彼が訪れた中南米や中国で撮影したスナップ写真群と、それらを基に制作された数々の絵画作品である。

たとえば、《婦人像(リオ)》(1932年、広島県立美術館蔵)では、現地の女性を写した写真が構図の起点となっており、繊細な表情や衣装の描写にその痕跡が色濃く残されている。また、《リオの人々》や《ブラジルの子どもたち》といった水彩作品にも、写真に収められた人々の眼差しや佇まいが、ほとんどそのままのかたちで画面に写し取られている。

興味深いのは、これらの写真が単なる“写し”としてではなく、ときにトリミングされ、構成され、再編集された素材として用いられている点である。被写体の姿勢や背景の建築、衣服のパターンなどが写真から抽出され、異なる文脈のなかで再構築されていく。それはまるで、コラージュのような構成主義的アプローチともいえるだろう。

本章では、写真と絵画を並置する展示構成が極めて効果的に機能しており、フジタの創作の舞台裏にある「視覚の編集技法」を視覚的に体感することができる。

画家がつくる写真 ― アマチュア写真家フジタの眼差し

写真を「道具」として用いていたフジタだが、それ以上に注目すべきは、彼自身が生粋の“写真愛好家”であったという事実である。本章では、その側面が鮮やかに浮かび上がる。

旅先には常にライカを携え、気ままに――しかし鋭い感性で――スナップ写真を撮影していたフジタ。今回の展示では、彼が1950年代にヨーロッパ各地で撮影したカラーフィルム作品が一堂に会する。
たとえば、《子供2人》では、構図の完成度、被写体への親密なまなざし、そして色彩の調和が絵画的であり、まさに“もう一つのフジタ作品”と呼ぶにふさわしい。

藤田嗣治《子供2人》1955年 東京藝術大学所蔵

さらに、《市街 バスの前の人々》や《海、人魚の銅像、観光客》といった作品では、日常の風景に潜む詩情や、旅先での異国情緒が、彼ならではの視線で的確に捉えられている。フジタの写真からは、「被写体を美しく記録する」ことよりも、「その場に漂う気配や空気をすくい取る」ことへの意識が感じられる。

画家がカメラを通して世界を見つめるという行為は、そのまなざしを可視化する営みでもある。本章に集められた作品群は、フジタの“観察者”としての資質を豊かに物語ってくれる。

藤田嗣治《市街 バスの前の人々》1955年 東京藝術大学所蔵

展覧会の締めくくりには、眼鏡やカメラケース、京都旅行中のスナップ写真など、フジタの愛用品が展示されている。これらの遺品は、単なる物質的な遺産ではない。“見ること”への執着、そしてそれを作品へと昇華させる姿勢の結晶といえるだろう。

1948年、妻・君代とともに巡った京都旅行では、親交のあった画家や文化人たちとの交流の様子が写真として残されている。その一枚一枚には、晩年に至るまで尽きることのなかった創作への意欲が静かににじみ出ている。

「見る」ことと「生きる」ことを重ね合わせながら、最後まで自らの“眼”を信じ続けたフジタ。
その追憶に触れる静謐な空間が、展覧会の幕を静かに閉じると同時に、鑑賞者の心に深い余韻を残してくれる。

2階展示風景 ©︎Hayato Wakabayashi

本展『藤田嗣治 絵画と写真』は、単なる回顧展でも、作風の変遷をなぞる年表的な展示でもない。むしろその核心は、「画家フジタ」が生涯をかけて貫いた“視線の編集”に迫ることにあり、私たち自身の「見ること」そのものへの問いかけでもある。

絵筆とカメラ、構図と即興、記録と演出——そのいずれにも偏ることなく、フジタは“創作のために見る”という行為を徹底していた。その眼差しは、自画像という舞台装置を通じて自己像をつくり出し、旅のスナップを通して他者や異国の文化をすくい取り、写真の断片からキャンバス上に物語を紡いでいった。

今、SNSを通じて誰もが「見られること」と「自分を編集すること」を意識する時代において、フジタの姿は驚くほど現代的に映る。彼のメディア戦略は偶然の産物ではなく、明確な意図と演出に支えられたものであった。

本展を観終えたとき、あなたの“眼”は少しだけ変わっているかもしれない。
そこには、フジタが生涯を通して問い続けた「見るとは何か」「見られるとは何か」という問題が、静かに、しかし確かに立ち上がってくるはずだ。

藤田嗣治 絵画と写真
会期:2025年7月5日(土)~8月31日(日)
会場:東京ステーションギャラリー(JR東京駅 丸の内北口 改札前
開館時間:10:00~18:00(金曜日~20:00)*入館は閉館30分前まで
休館日:月曜日(ただし8/11、8/25は開館)、8/12(火)
公式サイト

All Photo
  • Text : ジュウ・ショ
  • Edit : Seiko Inomata(QUI)

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