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「19世紀パリの夜を描いたポスターの革命児」アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|今月の画家紹介 vol.22

Nov 29, 2025
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」を、アーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

今回のアーティストはアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックだ。パリの歓楽街モンマルトルを舞台にしたポスターや人物画で知られ、19世紀末の「世紀末芸術」を象徴する画家のひとりである。
ここではロートレックの波乱に満ちた生涯と、彼が「日陰の人々」に向け続けたまなざし、そしてポスター芸術を一気に押し上げた革新性を、その葛藤とともに紹介していこう。

「19世紀パリの夜を描いたポスターの革命児」アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|今月の画家紹介 vol.22

Nov 29, 2025 - ART/DESIGN
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」を、アーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

今回のアーティストはアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックだ。パリの歓楽街モンマルトルを舞台にしたポスターや人物画で知られ、19世紀末の「世紀末芸術」を象徴する画家のひとりである。
ここではロートレックの波乱に満ちた生涯と、彼が「日陰の人々」に向け続けたまなざし、そしてポスター芸術を一気に押し上げた革新性を、その葛藤とともに紹介していこう。
Profile
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

フランスの画家。(1864年11月24日-1901年9月9日)
モンマルトルのキャバレーや劇場、娼館など夜の街の風景や人々を独特の色彩と線で描いた。

障害と疎外感が生んだ画家の原点

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、全身写真(ポール・セスコー撮影)、1894年、トゥールーズ=ロートレック美術館(アルビ所蔵)

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは1864年11月24日、南仏アルビ近郊で生まれた。生粋の貴族階級の長男であり、その家系はフランスでも最古級の名門である。
父アルフォンス伯爵は狩猟と女遊びを好む破天荒な人物だった。一方、母アデールは敬虔で穏やかな女性であり、生涯を通じて息子を支え続ける存在となる。

幼いロートレックは虚弱ながらも愛らしい子どもで、家族からは「小さな宝石(Petit Bijou)」と呼ばれ、惜しみない愛情を注がれた。しかし、従兄妹同士の近親婚であった両親から生まれた彼は、生まれつき骨が弱かった。

10代のはじめ、ロートレックは相次いで大腿骨を骨折する。14歳までに左右の大腿骨を折ったことで下半身の成長が止まり、成人した時の身長はおよそ150センチ前後にしかならなかった。「胴体は大人のまま、脚だけが子どもの長さのまま」というアンバランスさは、周囲の好奇と嘲笑の的にもなった。
また、狩猟や乗馬をこよなく愛し、自らの男らしさと家の伝統に誇りを持っていた父にとって、息子の障害は受け入れがたい現実だった。父は次第にロートレックを避けるようになり、その絵も認めようとしなかったという。

かつて「小さな宝石」と呼ばれた少年は、徐々に父から疎まれる存在へと変わっていった。この喪失感と疎外感こそが、後に彼をモンマルトルの夜の世界へと導き、社会の周縁で生きる人々への深い共感へとつながっていく。

画家としての修業― 馬と線描が鍛えた観察眼

身体の自由を奪われたロートレックにとって、絵を描くことは世界とつながるための数少ない手段だった。祖父や父はもともと絵が上手く、ロートレックも幼い頃から自然とスケッチに親しんでいた。

10代の終わり、彼は本格的に画家の道へ進む決意をする。最初の師となったのは、父の友人で動物画家のルネ・プランストーだ。プランストーのもとでロートレックは、馬や狩猟の場面を集中的に描き込んだ。
自分自身は脚が不自由で馬に乗ることができなかったが、馬の姿は幼少期から身近にあり、憧れの対象であり続けると同時に、彼にとって心の支えでもあった。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ナポレオン》1896年

その後パリに出たロートレックは、肖像画家レオン・ボナの画塾で古典的な技法を学び、画家として必要な基礎力を磨く。ボナのアトリエが閉鎖されると、歴史画家フェルナン・コルモンの画塾へ移り、ここでエミール・ベルナールやフィンセント・ファン・ゴッホらと出会う。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《フィンセント・ファン・ゴッホ》1887年 ゴッホ美術館所蔵

コルモンは比較的自由な指導者であり、新しい美術動向にも開かれていた。ロートレックはこの環境で、同世代の前衛的な画家たちとの交流を通じて刺激を受け、自身の方向性を模索していく。

同じ頃、彼はエドガー・ドガの作品や日本の浮世絵と出会い、大きな衝撃を受ける。輪郭線を重視した平面的な構図、画面から大胆にはみ出すような切り取り方、日常の一瞬の姿を鋭く捉える視線は、当時の彼にとって革命的だった。
実際、ロートレックの作風は日本美術から強い影響を受けており、自身のイニシャルを漢字のようにアレンジしたサインを用いたり、和服姿の肖像写真が残されている。

モンマルトルの夜とポスター革命― ムーラン・ルージュから世界へ

1880年代半ば、ロートレックはパリ北部のモンマルトルに拠点を移した。そこはダンスホールやキャバレー、劇場、娼館がひしめき合うパリ屈指の歓楽街だった。芸術家や作家たちが集まり、貴族と労働者階級が同じ空間で酒を飲む、社会の縮図のような場所でもあった。

家族の庇護のもとで育った貴族の子息でありながら、身体的なハンディキャップのために“外側”に追いやられた青年にとって、モンマルトルは特別な意味を持つ場所だった。そこには行き場のない欲望と孤独、そして奇妙な連帯感があった。ロートレックは次第にモンマルトルに住み着き、夜ごとキャバレーやダンスホールに通い詰めた。

転機となったのは、歌手アリスティド・ブリュアンとの出会いである。

アリスティド・ブリュアン

小さなバーの経営者であったブリュアンは、ロートレックの才能を見抜き、自身の宣伝ポスター制作を依頼する。その後も彼らの友情は続き、ロートレックはブリュアンをモデルに複数のポスターを制作した。

ある時、モンマルトルのキャバレー『アンバサドゥール』は、売り出し中だったブリュアンの出演を決め、宣伝のためにロートレックにポスターを描かせた。

しかし、支配人はその仕上がりに不満を漏らす。「華やかさがなく、客を呼べない」と言ったのだ。するとブリュアンはきっぱりとこう告げる。「このポスターを使わないのなら、私は出演しない」。この一言により、ロートレックのポスターは無事に街に貼り出され、やがて人々の目を釘付けにすることになる。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《アンバサドールのアリスティド・ブリュアン》ポスター 1892年

1889年、モンマルトルに巨大なダンスホール『ムーラン・ルージュ』が開店する。現在までにエルビス・プレスリー、フランク・シナトラなども活躍した有名なスポットだ。

赤い風車を掲げたこの店は、たちまちパリ中の話題となり、連日連夜人々で溢れかえった。ロートレックはオープン当初からの常連となり、店の雰囲気とスターたちを描き続ける。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン・ルージュの舞踏会》1890年 フィラデルフィア美術館所蔵

1891年にムーラン・ルージュから正式にポスター制作の依頼を受けて制作した《ムーラン・ルージュのラ・グリュ》は、彼を一躍人気画家へと押し上げた作品だ。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン・ルージュのラ・グリュ》ポスター 1891年

シンプルな線で人物の特徴をつかみ、文字までデザインの一部として画面に組み込む。派手な効果に頼ることなく、モデルの動きと性格が一目で伝わるポスターは、当時のパリの街角に新しい視覚文化をもたらした。

また同時期に描かれた代表作である《ディヴァン・ジャポネ》などのポスター群も、斬新な構図と大胆な省略、強いシルエットが特徴だ。これによって、ポスター広告は単なる宣伝物から「芸術作品」へと押し上がっていった。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ディヴァン・ジャポネ》ポスター 1892年

まさにロートレックのポスターは革命だったのだ。現代のグラフィックデザインや広告ビジュアルに至るまで、ロートレックのポスターからの影響は数えきれない。

娼館で見つけた「彼女たち」のまなざし― 日陰の人々への共感

ロートレックが心惹かれたのは、きらびやかなスターだけでなく、キャバレーの裏側で働く花売りや洗濯女、そして娼館で生きる娼婦たちだった。社会の周縁に追いやられ、しばしば冷たいまなざしを向けられる人々こそ、彼の最大のテーマであった。

身体障害ゆえに嘲笑の対象となり、父からも認められないまま成長したロートレックは、自らも「周縁」に属する存在だった。だからこそ、社会から差別される人々への共感は人一倍深かったのだろう。

彼は娼館に部屋を借り、ときには同じ建物に寝泊まりしながら、そこで働く女性たちの日常を描き続けた。化粧前のぼんやりした横顔、客を待つ退屈な時間、同僚どうしで肩を寄せ合って談笑する姿、医師による性病検査を受ける緊張の瞬間までの光景を描いた。モデルと画家という距離を超え、友人として、時には相談相手として娼婦たちに寄り添ったといわれている。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン街》1894年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン通りのサロン》1894年 トゥールーズ=ロートレック美術館所蔵

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ベッド》1893年 オルセー美術館所蔵

しかし、こうした画集は性的描写が抑えられていたこともあって、当時の市場では商業的な成功を収めることはなかった。世間が求めていたのは、刺激的で消費しやすいイメージだったのだろう。

ロートレックの人物画の魅力は、誇張と省略を駆使した「線」にある。顔立ちが正確に似ていなくても、「この足の上げ方はあのモデルだ」「この姿勢はあのダンサーだ」と、モデル本人が特定できたという。彼は外見上の正確さよりも、その人の癖や内面を映し出す「本質的なかたち」をとらえようとしていたと考えられる。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《シルペリックのボレロを踊るマルセル・ランデ》1895年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵

しかしモンマルトルでの怒涛の日々は、ロートレックの心と体を確実に蝕んでいった。キャバレーや娼館に通い詰める生活の中で、彼はアブサンを手放せなくなる。やがてアルコール依存症に陥り、どこからか梅毒も患ってしまった。

1899年頃になると、幻覚症状を伴うほど状態は悪化し、家族によりパリ郊外のサナトリウムへ強制的に入院させられる。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《パリの医学部での試験》1901年 トゥールーズ=ロートレック美術館所蔵

そして1901年の夏、ボルドー近郊の海辺で風に当たっていたロートレックは倒れ、そのまま母の住むマルロメの城へ運ばれる。9月9日、彼は36歳という若さでこの世を去った。

最期の言葉は、父アルフォンスに向けて発したとされる「Le vieux con!(馬鹿な年寄りめ!)」だったという。一見ただの罵倒にも思える言葉だが、そこには「生涯一度も自分の絵を認めてくれなかった父」への、押し殺してきた感情が凝縮されているようにも感じられる。

ロートレックが問いかける「生の肯定」

ロートレックの生涯は、華やかな「芸術家伝説」というより、むしろ「痛みと孤独に満ちた物語」に近いのかもしれない。

それでもなお、彼の作品には不思議な「生の実感」が満ちている。踊り子の跳ね上げた脚、舞台袖でタバコをくゆらせる歌手の横顔、朝の光の中でぼんやりと佇む娼婦たち。日常的にいる人物たちを、ロートレックは決して美化して描いてはいなかった。

近年、「多様化」という言葉が盛んに使われる。誰もが「理解しています」「配慮しています」と口では言うが、その実態はどうだろうか。「優しくしよう」という姿勢だけで、多様な社会は本当に成立するのか。どれだけの人が、本当の意味で「同じ目線」で世界を見ようとしているのだろうか。

ロートレックは、日陰にいる人々を「かわいそうな存在」として救おうとしたわけではない。同じ高さの目線で世界を見ていた。そのフラットなまなざしこそ、いまも多くの人を惹きつけてやまないのだと思う。

彼の線のひとつひとつには、自分の弱さと他者の弱さ、その両方を抱え込みつつ、それでも生きることを肯定しようとする静かな意志が宿っている。

  • Text : ジュウ・ショ
  • Edit : Seiko Inomata(QUI)

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