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「オランダ黄金期に日常を切り取った画家」ヨハネス・フェルメール|今月の画家紹介 vol.13

Nov 2, 2024
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介する。
今回はオランダ黄金時代の画家・フェルメールを紹介。《牛乳を注ぐ女》や《真珠の耳飾りの少女》などの作品は有名だが、彼の生涯を知っている方は少ない。
実はフェルメールの生涯については、2010年代になるまでほとんど知られていなかった。そんな彼の生涯を追うとともに作品を紹介していこう。

「オランダ黄金期に日常を切り取った画家」ヨハネス・フェルメール|今月の画家紹介 vol.13

Nov 2, 2024 - ART/DESIGN
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介する。
今回はオランダ黄金時代の画家・フェルメールを紹介。《牛乳を注ぐ女》や《真珠の耳飾りの少女》などの作品は有名だが、彼の生涯を知っている方は少ない。
実はフェルメールの生涯については、2010年代になるまでほとんど知られていなかった。そんな彼の生涯を追うとともに作品を紹介していこう。
Profile
ヨハネス・フェルメール

ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家。(1632年10月31日 – 1675年12月15日)
バロック期を代表する画家の1人であり映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。

オランダ黄金時代を過ごした10代

《取り持ち女》1656年の左端の人物。この人物をフェルメールの自画像とする説がある。

フェルメールは1632年、当時ネーデルラント連邦共和国だったオランダのデルフトで生まれ、生後すぐにキリスト教の洗礼を受けた。
彼の父親は絹織物の職人であったが、同時に画廊も経営していた。彼が経営する店はかなり変わっていて、絵画や織物を販売する一方で、居酒屋・宿屋として使われていた。ものすごく奇妙なお店を営むファミリーでフェルメールは育った。

フェルメールが生まれた当時、オランダは「黄金時代」にあった。当時はオランダが「世界一の港町」と呼ばれていた時代だ。特にオランダで大量に栽培されていたチューリップが高級品だった時代だ。ヨーロッパ中のブルジョワ層がオランダのチューリップを求める、いわゆる「チューリップ・バブル」の時代でもあった。

《愚か者の車》1637年 ヘンドリク・ヘリッツゾーン・ポト

ここで重要なのはこの時代に「オランダ市民が絵を買って飾る文化」ができたことである。黄金時代の前は絵画のパトロンは「国」か「教会」だった。国家や教会は民衆からの支持を得るため、画家に「かっこよく描いてね」と発注していた時代だ。
その結果、ダイナミックでオーバーな描き方が流行っていた。これがいわゆる「バロック絵画」の特徴だった。

しかし市民がパトロンになったことで、オーバーな描き方ではなく、写実的な表現が好まれるようになる。フェルメールはこうした絵画の潮流のなかで生きていくのである。

宗教画や神話画を描いていた初期

そんな繁栄の時代に生まれたフェルメールは、15歳で画家の弟子となった。当時のオランダには「学校に入学して卒業し、仕事を得る」という現代のような文化はない。画家は「職人」に近く、弟子として工房に入り、修行を積むのが一般的だった。

フェルメールの師匠は、レンブラントの一番弟子として知られるオランダの画家カレル・ファブリティウスだったといわれているが、これは確証がない。

《自画像》1650年 カレル・ファブリティウス

そんなフェルメールは20歳で父親を亡くし遺産を得るが、当時は画家としての収入がなく貧乏生活だった。

そんななか、なんとフェルメールは21歳で、裕福な家庭の娘・カタリーナと結婚する。当然、カタリーナの母親は「貧しい画家との結婚なんて…!」と猛反対したが、最終的に二人は結ばれた。

ちなみに、フェルメールとカタリーナの間には15人の子どもが生まれ、そのうち11人が成長した。フェルメールは21歳で結婚し、43歳で亡くなるまでの短い間に、大勢の子宝に恵まれることになる。

また、フェルメールはその後、デルフトの聖ルカ画家組合の親方に選ばれている。親方になることで弟子を取ることができ、この時点で同業者からの評価も高まっていたことがわかる。

当時のフェルメールは意外なことに、宗教画や神話画を描いていた。我々がよく知る「日常の光景を描いた風俗画」を手がける以前、20代前半にはこうした作品に取り組んでいた。

《マリアとマルタの家のキリスト》1654年 – 1655年頃 ヨハネス・フェルメール

《聖プラクセディス》1655年頃 ヨハネス・フェルメール

そんなフェルメールは、23歳にして亡くなった父親の店「メヘレン」を引き継ぎ経営を始めた。この店を経営する一方で、アトリエとしても活用しており、彼は子育てや家事の合間を縫って絵を描いていたようだ。

相変わらず絵は売れなかったものの、メヘレンの収入と裕福な義母のおかげで、フェルメールは高価な「ラピスラズリ」を手に入れることができた。ラピスラズリから作られる顔料が「ウルトラマリン」だ。

天然ウルトラマリン

ウルトラマリンはフェルメールの絵に多用され、彼の代名詞ともいえる色となる。死後、彼が評価された大きなポイントが、このウルトラマリンだ。

ちなみに当時、ラピスラズリは純金と同等の価値があったとされており、フェルメールは相当な額をその絵画制作に費やしていたことがうかがえる。

独自技法の発明と傑作《牛乳を注ぐ女》

売れない画家だったフェルメールに転機が訪れたのは25歳頃のことだ。醸造業者であり投資家でもあったピーテル・ファン・ライフェンというパトロンが、若くして現れたのだ。

結果的に彼は生涯にわたりフェルメールを経済的に支援してくれた。このパトロンは寡作だったフェルメールの作品を20点も所持することになる。フェルメールが寡作であっても生活が安定していたのは、父親のお店があり、妻の実家があるほか、このパトロンがいたおかげだ。画廊に頻繁に作品を持ち込む必要がなく、経済的にも余裕があった。

その後、フェルメールは宗教画や神話画から、次第に風俗画へと転向していく。これは、当時風俗画が人気だったことも理由の一つだろう。その象徴ともいえるのが、ウルトラマリンを巧みに使って描かれた名作《牛乳を注ぐ女》だ。

《牛乳を注ぐ女》1658年 – 1660年頃 ヨハネス・フェルメール

フェルメールが26、7歳の頃に描かれた作品で、特に青いエプロンが目を引く。令和のいま見ても、この青の鮮やかさは新鮮に美しさを感じられる。さらに、この作品にはフェルメール独自の技法も詰まっている。

例えば、画面には「白い斑点」が多く描かれていることに気づくだろう。これは「ポワンティエ」というフェルメールが考案した技で、画面にアクセントを加え、光の反射を印象的に表現している。

また、この時期のフェルメールは「小窓から差し込む自然光を用いた描写」を得意としていた。《窓辺で手紙を読む女》や《士官と笑う女》《紳士とワインを飲む女》など、同様の手法が見られる。

《窓辺で手紙を読む女》1659年頃 ヨハネス・フェルメール

この小窓を通じた光の表現は、画面上部に光を当て、下部には影を落とすことで、重厚感と明るさのコントラストを作り出している。

《士官と笑う女》1658年頃 ヨハネス・フェルメール

この技術は、バロック時代の画家カラヴァッジョやレンブラントの動的な光の使い方とは対照的だ。フェルメールの光は静的で自然な印象を与える。フェルメールは「光に興味があり、物語には興味がない」と語っており、寓意や過剰な演出がない。ただ、日常の光景を切り取るような作品を作り上げた。

だからキリスト教になじみがない現代の日本人でも共感できるし、美しいと感じる。彼の作品が今も多くの人々に愛される理由の一つだろう。ちなみにフェルメールは制作の際、カメラ・オブスキュラという装置を使っていたとされる。

手持ち式カメラ・オブスクラの使い方

この装置は現代のカメラの原理に似ており、映し出される像がぼやけることが多かったため、フェルメールの作品にはどこか抽象的な質感があるといわれている。また、ポワンティエの白い斑点も、この装置が生む光のぼやけた斑点を参考にしたとされている。

《真珠の耳飾りの少女》の制作

フェルメールは20代後半に風景画《デルフト眺望》を制作した。風景画は彼の生涯でわずか2点しかなく、非常に貴重な作品である。この作品も、カメラ・オブスキュラを使って描かれたといわれている。ピーテル・ファン・ライフェンの死後、彼のコレクションが競売にかけられた際、最も高額で取引された作品でもある。

《デルフト眺望》1660年 – 1661年頃 ヨハネス・フェルメール

その後、30代に入り、フェルメールは聖ルカ画家組合の理事に最年少で選出され、オランダの画家として一目置かれる存在となった。

さらに、30代後半には理事に再選されており、2度も理事を務めることは当時でも非常に珍しいことだった。このことから、彼は生前から高く評価されていたことがわかる。

《ヴァージナルの前に立つ女》1673年 – 1675年頃 ヨハネス・フェルメール

また、この時期にも風俗画の制作を続けており、30代半ばには代表作《真珠の耳飾りの少女》を完成させた。33~34歳頃に描かれたこの作品は、ウルトラマリンを使用したブルーのターバンが特徴的だ。

《真珠の耳飾りの少女》1665年頃 ヨハネス・フェルメール

正式には《真珠の耳飾りの少女》だが、ターバンが印象的なため《青いターバンの少女》とも呼ばれている。このターバンはオランダの伝統的な衣装ではなく、東洋との貿易を通じて流入したものだろう。

この作品は、シンプルながら記憶に残る構図で、少女が少し微笑んでこちらを振り返る姿が印象的だ。誰の依頼で描かれたのか、モデルが誰なのかは不明であり、そのミステリアスな点が今も人々を魅了している。

仏蘭戦争に翻弄された40代

フェルメールは30代も子育てと制作に追われながら順調な生活を送っていたが、1670年代に入り、彼が40代になるころに状況が一変する。「第三次英蘭戦争(仏蘭戦争)」が起きたのだ。

テッセル海戦におけるゴーデン・レーウ。1673 年 8 月 11 日、デン・ヘルダー近郊でオランダ艦隊とフランス・イギリス艦隊の間で行われた海戦。第三次英蘭戦争の最後の大海戦となった。ゴーデン・レーウ (金の獅子) はコルネリス・トロンプ中将の旗艦であった。ウィレム・ファン・デ・フェルデ (II) 作、1687 年。

フランス軍がオランダに侵攻し、国全体が大打撃を受け、かつての繁栄が嘘のように経済は悪化していった。

さらに、同時期に新進気鋭の画家たちが台頭し、フェルメールの作品は売れなくなってしまう。長年支えてきたパトロンのピーテル・ファン・ライフェンも亡くなり、彼は窮地に立たされたわけだ。

ちなみに戦争の影響もあり、17世紀半ばと比べ、17世紀末にはオランダの画家の数は4分の1に減少したとされ、フェルメールだけでなく多くの画家にとって厳しい時代となった。

《ギターを弾く女》1673年 -1674年 ヨハネス・フェルメール

この困難な時期、フェルメールは小窓の構図を使った作品や、楽器を演奏する女性などを描き続けたが、戦争が始まってからは一枚の絵も売れなくなった。画商としても、オランダの人々は絵を買う余裕がなくなっていたため、次第に生活が困窮していった。

1675年、フェルメールはアムステルダムで義母の財産を担保にお金を借りるが、返済のめどが立たないまま、ストレスが重なり、43歳という若さで急死してしまった。

《ヴァージナルの前に座る女》1675年頃 ヨハネス・フェルメール

写実主義のレベルを一段階押し上げた画家

《真珠の首飾りの女》1662年 – 1665年頃 ヨハネス・フェルメール

フェルメールの死後、彼の作品はすぐに高い評価を受けたが、その後100年ほど忘れられる時代が続いた。

写実主義が流行していたフェルメールの時代とは異なり、後の美術アカデミーの影響で、理想化された古典主義的な表現が主流となったため、彼の写実主義は「古い」と見なされてしまったのだ。

しかし、19世紀以降にバルビゾン派や印象派が登場し、写実主義が再び注目されるようになると、フェルメールの評価も復活する。

なかでもサルバドール・ダリはフェルメールの大ファンであり、彼の作品に強く影響を受けた。ダリは自著の中で過去の画家を採点する遊びをしており、フェルメールには最高点をつけている。「フェルメールのアトリエで10分でも観察できるなら、右腕を失ってもかまわない」とまで言ったほどだ。

特に《レースを編む女》はダリのお気に入りであり、写実性にこだわるダリにとって、フェルメールの精密な描写は特別な存在だったのだろう。

《レースを編む女》1669年 -1670年 ヨハネス・フェルメール

フェルメールの写実主義は、まるで日常の一瞬を切り取ったかのようなリアルさと美しさを兼ね備えている。この唯一無二の表現が実現した背景には、彼独自の技法や高価な素材の使用があったことは間違いない。

そして、その技法は後世にも受け継がれ、現代の画家たちにも影響を与え続けている。写実画というジャンルを大きく推し進めたことこそ、フェルメールの偉大さの一つである。

  • Text : ジュウ・ショ
  • Edit : Seiko Inomata(QUI)

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