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ART/DESIGN

不安に「かたち」を与えた男、エドヴァルド・ムンク|今月の画家紹介 vol.33

Oct 22, 2026
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」を、アーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

今回のアーティストはエドヴァルド・ムンク。19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したノルウェーの画家であり、《叫び》の作者として世界中に知られる男だ。あの絵を見たことがない人は、まずいないだろう。実は、描かれた人物が叫んでいるわけではないことをご存じだろうか。では、ムンクはなぜこの傑作を生み出すことができたのか。今回は、その生き様をたどりながら、作品が生まれた背景に迫る。

不安に「かたち」を与えた男、エドヴァルド・ムンク|今月の画家紹介 vol.33

Oct 22, 2026 - ART/DESIGN
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」を、アーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

今回のアーティストはエドヴァルド・ムンク。19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したノルウェーの画家であり、《叫び》の作者として世界中に知られる男だ。あの絵を見たことがない人は、まずいないだろう。実は、描かれた人物が叫んでいるわけではないことをご存じだろうか。では、ムンクはなぜこの傑作を生み出すことができたのか。今回は、その生き様をたどりながら、作品が生まれた背景に迫る。
Profile
エドヴァルド・ムンク

19世紀 – 20世紀のノルウェー出身の画家。(1863年12月12日 – 1944年1月23日)
《叫び》の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。

幼いころから「死」と「狂気」を身近に感じていた

エドヴァルド・ムンク 1933年 アンデシュ・ベーア・ウィルセ撮影

ムンクは1863年12月12日、ノルウェー南東部のロイテンに生まれた。父クリスティアンは軍医だったが、給料は安く、暮らしは決して楽ではなかった。

1868年、ムンクが5歳のときに母のラウラが結核で亡くなる。もともと信心深かった父は、妻の死を境に狂信的といっていいほど信仰にのめり込み、子どもを叱るときも異常なまでに厳しくなった。

ある晩、信仰をめぐって父と口論したムンクは、寝室のベッドの前にひざまずいて祈る父の姿を見てしまう。衝撃を受けた少年は、その光景をすぐにスケッチした。描き終えて、ようやく眠ることができたという。

私は、ここに画家ムンクの原型があると思っている。耐えがたいものを見たとき、描くことでそれを自分の外に出す。彼にとって絵は、ただの記録ではなく「自分への手当て」だったのではないか。

その後もムンクの不幸は続く。1876年、13歳の暮れ、気管支を患っていたムンクは血を吐き、自分も結核で死ぬのだと覚悟するようになる。そして翌1877年、母代わりに愛情を注いでくれた姉のソフィーエが、結核により15歳で亡くなる。この出来事をきっかけに、妹のラウラは精神を病んでしまった。

のちに彼は、このときのことを「病と狂気と死が自分の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」と書いている。身内の死を間近に体験したこと、残された家族が狂気にとらわれていくこと、そして自分自身の死への恐怖。これらは生涯にわたって彼につきまとうことになる。

エドヴァルド・ムンク《病室での死》1893年 ムンク美術館蔵

1879年、父の意向で技師を目指して工業学校に入学するが、病気で休みがちになり、翌年には退学してしまう。そして、その日の日記に「自分の運命は画家になることだ」と記した。1880年の暮れ、ムンクは芸術を快く思っていなかった父をどうにか説得し、王立絵画学校に通い始める。

自分の生涯を絵で表現するようになる若年期

絵画学校で精神的にも肉体的にも健康を取り戻したムンクは、仲間とアトリエを借り、自然主義の画家クリスチャン・クローグの指導を受けるようになった。そしてクローグを通じて、伝統的なキリスト教的道徳に真っ向から反抗する集団「クリスチャニア・ボヘミアン」に出入りし始めた。

クリスチャニア・ボヘミアンはかなり変わったグループだ。このグループが掲げた戒律には「汝はあらゆる家族的係累を断ち切らねばならない」「汝は自ら命を断たねばならない」などの文言がある。

とにかく伝統的なキリスト教の道徳を否定し、青年が「自分の力だけ」で成功をつかむための思想を説いていた。ムンクも大きな影響を受けた一方で、口ばかりで絵を描かないメンバーには、はっきりと嫌悪感を示していた。

戒律の中には「汝は自己の生涯を語らねばならない」というものもある。ここでいう「生涯を語る」とは、つまり自分の感情や心理状態をごまかさずに作品にしろということだ。狂信的で厳しい父のもとで内面を押し殺して育った青年にとって、これは深く心に響いたに違いない。

その後に描いたのが《病める子》だ。亡くなった姉ソフィーエの記憶を重ねた作品で、ムンクはほぼ1年をかけて仕上げた。絵具を塗っては削り、また塗る。画面には引っかき傷のような跡が残り、病床の少女の輪郭はところどころ溶けている。

エドヴァルド・ムンク《病める子》1885〜1886年 ノルウェー国立美術館蔵

1886年に出品されたこの絵は、激しい非難を浴びた。保守系の新聞は「下塗りさえしていない、近づけば近づくほど何が描いてあるのか分からない」と酷評し、会場では笑い声まで聞こえたという。

ムンク自身はこの作品を、自分にとって最初の「魂の絵画」であり、印象派的な手法からの決別だったと位置づけている。そして「ノルウェーでこれほどのスキャンダルを起こした絵はない」とも書き残している。受け入れられなくても、ある種の手ごたえを感じていたのだ。

エドヴァルド・ムンク《生命のダンス》1899〜1900年 ノルウェー国立美術館蔵

その後、1889年、26歳になったムンクは自作110点を並べる個展を開く。当時のノルウェーでは、個展という形式そのものが初めての試みだった。これが評価され、政府の奨学金を得てパリへ留学する。

パリで彼は、ゴーギャンやゴッホ、ロートレックの作品に強く惹かれた。いずれも色を目に見えるとおりにではなく、感情を伝えるために使った画家たちだ。一時は印象派風の点描画にも挑んでいる。

エドヴァルド・ムンク《カール・ヨハン通りの春の日》1890年 KODE美術館蔵

だが、その年の12月に父の訃報が届く。打ちのめされたムンクはパリ郊外で、手帳に「もう室内画や、本を読む人、編み物をする女を描いてはならない。息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」と書いた。

ムンクはまたしても家族の死に直面し、自分の作風を見つめ直すことになる。

《病める子》で印象派から脱却し、さらにパリを訪れて風景に溶け込む人物を描くようになった。しかし、死を身近に感じたムンクは「人間の持つ生命力を描かねばいけない」と強く感じるようになる。私は、ムンクは人生で追い詰められるたびに進化していく画家だと思っている。

そんなムンクは1892年、ベルリン芸術家協会に招かれてベルリンで個展を開く。ところが、荒々しく未完成に見える作品群は協会の保守派の反発を買った。新聞各社がムンクの作品を非難し、1週間ほどで展示は打ち切られたが、当のムンクは落ち込むどころか、むしろ誇らしく思っていた。

エドヴァルド・ムンク《メランコリー》1892年 ノルウェー国立美術館蔵

しかし、画商の支援もあってムンクの個展は数か所で開催され、実際にこの時期からファンも増えていった。

そのままベルリンに居ついたムンクは、北欧の芸術家たちと議論を重ねながら、代表作を次々に生み出していく。そのひとつが1893年の《叫び》である。

エドヴァルド・ムンク《叫び》1893年 ノルウェー国立美術館蔵

制作の背景について、ムンクは次のような体験を書き残している。

「夕暮れどき、友人二人と道を歩いていた。突然、空が血のように赤く染まった。疲れを感じて柵にもたれると、青黒いフィヨルドと町の上に、炎の舌と血が覆いかぶさっていた。友人たちは歩き続けたが、自分は不安に震えて立ち尽くし、自然を貫く果てしない叫びを聴いた」

つまり、叫んでいるのは自然で、彼は耳をふさいでいるという構図だ。私は、この絵の本当のすさまじさは背景の二人にあると思っている。フィヨルドの叫びが聞こえているのは自分だけ。不安とは、まさにそういうものだ。誰とも共有できないから、不安なのである。

ムンクはこの場面を、1893年から1910年にかけて絵具で2点、パステルで2点、さらにリトグラフでも繰り返し制作している。

エドヴァルド・ムンク《叫び》1910年 ムンク美術館蔵

ムンクはこうした作品群を、愛と死、それらがもたらす不安をめぐる一続きの連作として構想していた。のちに「生命のフリーズ」と名づけられるシリーズで、まさにムンクの代表作といっていい。《マドンナ》《吸血鬼』《思春期》などが含まれる。

エドヴァルド・ムンク《マドンナ》1894年 ムンク美術館蔵

エドヴァルド・ムンク《吸血鬼》1895年 ムンク美術館蔵

エドヴァルド・ムンク《思春期》1894〜1895年 ノルウェー国立美術館蔵

扱われるテーマは、恋の目覚め、誘惑、嫉妬、裏切り、別離、不安、そして死。登場する一人ひとりが強い感情を背負わされている。人物のまわりには影や色の輪が揺らめく。まさに、波乱万丈な人生を送ってきたムンクだからこそ描ける鬼気迫る連作である。

精神病院への入退院と、各国に表彰された晩年期

その後、1902年、ムンクは展示を成功させ、有力なパトロンもつき、ようやく暮らしが上向き始めた。日記にも「あの悲惨な時代は終わった」と記している。

一方で、私生活は荒れていた。数年前から交際していたトゥラ・ラーセンは結婚を望んだが、ムンクは「神経質な家庭で育った自分には結婚する権利などない」と感じ、拒んでいた。

そして、小競り合いのなかでムンクは左手の指をピストルで撃たれ、重傷を負う。彼はのちにこの事件を題材にして《マラーの死》を描いた。

エドヴァルド・ムンク《マラーの死 II》1907年 ムンク美術館蔵

その後もムンクは酒量が増え、画家仲間とつかみ合いの喧嘩を起こすなど、不安のあまり妄想にとらわれるようになった。画業の成功とは裏腹に、精神的には危うい状態に陥っていたのだ。

1908年秋、ついに限界を迎えたムンクは、コペンハーゲンにあるダニエル・ヤーコブソンの病院に自ら入院した。8か月におよぶ療養のあいだに、母国ノルウェーは彼に聖オーラヴ勲章を贈っている。

エドヴァルド・ムンク《病院での自画像》1909年 KODE美術館蔵

翌年に退院したムンクは、人前での飲酒を避け、ごく限られた友人とだけ付き合うようになる。ノルウェーに戻ると、国立美術館がムンクの作品を買い上げた。さらに、ベルゲンの大コレクターも作品をまとめて購入し、国内での評価は決定的になった。

そしてここから、絵が目に見えて変わる。色は明るくなり、筆致はのびやかになる。題材も、働く人々や馬、雪の積もった畑といった外の世界へと向かっていくのだ。「生命のフリーズ」を描いていた時期とは、画風が大きく変わっていく。

1916年には《太陽》を含む壁画群を完成させた。

エドヴァルド・ムンク《太陽》1911〜1916年 オスロ大学美術コレクション蔵

同年、ムンクはオスロ郊外のエーケリーにある、かつて農園だった広大な土地を買い取り、亡くなるまでここで暮らした。ここから、描く題材は身近なものになっていく。

エドヴァルド・ムンク《黄色い丸太》1912年 ムンク美術館蔵

キャリア後期の制作手法はかなり独特だ。完成した絵をあえて屋外に置き、雨風や日光にさらし、犬に引っかかれても放っておく。そうして色が「落ち着く」のを待ったという。絵の表面を保護するニスは、絵の呼吸を妨げるとして嫌った。

エドヴァルド・ムンク《籐椅子のそばのモデル》1919〜1921年 ムンク美術館蔵

一方で、新聞はムンクを大金持ちとして書き立て、施しを乞う手紙が次々に舞い込んだ。近隣住民からの嫌がらせにも悩まされたそうだ。

1927年には、ベルリンのナショナル・ギャラリーで最大規模の回顧展が開かれ、同年秋にはオスロ国立美術館へ巡回した。1932年から1933年にかけては、ドイツ、ノルウェー、フランスから勲章を授与されている。

しかし1937年、ナチス・ドイツはムンクの作品を「退廃芸術」とみなし、ドイツ国内の美術館から82点を撤去した。この時期にも、自画像などの作品を描き続けていた。

エドヴァルド・ムンク《時計とベッドの間の自画像》1940〜1943年 ムンク美術館蔵

1943年、オスロ市内で起きた大爆発で自宅の窓ガラスが吹き飛ぶ。翌1944年、凍える夜気のなかで息を引き取った。死因は、幼いころから死の不安を植え付けていた気管支炎だった。

表現者にとって「傷つくこと」とは必要なのか

エドヴァルド・ムンク《嫉妬》1907年 ムンク美術館蔵

私の身近には、若い画家が何人かいる。そのうちの一人が、あるとき「幸せになったら、絵を描く理由なんてない」と口にした。この言葉を聞いて、真っ先に思い浮かんだのがムンクだった。ムンクは「傷つけば傷つくほど表現に磨きがかかる画家」だと感じているからだ。

母と姉を早くに失い、信仰に取り憑かれた父のもとで育ち、その父も若くして亡くなった。「自分もすぐ死ぬのではないか」「いつか正気を失うのではないか」と怯え続けながら、若い時期を過ごした。生涯にわたって何度も精神的に落ち込んでいる。とても繊細な画家だ。

ムンク自身、「生への不安と病がなければ自分は舵のない船のようだっただろう」と書き残したとされる。実際、代表作の多くは、最も苦しかった1890年代に制作された。

もちろん、作品の生み出し方は人それぞれであり、穏やかな暮らしのなかから優れた作品を生み出す画家もいる。ただ、ムンクに限っていえば、傷つくことが描くモチベーションになっていたように思う。

そして、傷つくことで感性は間違いなく育つ。例えば、事故で大切な人を亡くした人にとって、救急車のサイレンは、もう以前と同じ音ではない。『叫び』はその最たる例だ。歩き去っていく友人には聞こえない叫びを、ムンクは聞いた。だからこそ、あの傑作が生まれた。

ムンクがすごいのは、聞こえた叫びを大事に大事に保管する姿勢だと思う。同じ場面を何度も描き直し、版画にし、ほかの作品と組み合わせて「生命のフリーズ」にまとめ上げた。

描いてしまえばつらい感情も手放せるのに、ムンクは手放さず、形にし続けたのだ。これがすごい。そして彼は、作品を自分の子どものように思っていた。原画を手放したくないからこそ、版画にして売ったのだ。

ムンクの生き様は、まさに若手のアーティストが常に考えている「作品を深めるうえで傷つくことが必要なのか」「傷つけなくなったら、作品なんて描けないのではないか」という不安に直結する。そして、ムンクが結果的に生きている間に大成したという事実は、後世のアーティストたちの背中を押してくれるに違いない。

  • Text : ジュウ・ショ
  • Edit : Seiko Inomata(QUI)

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