「ありのままの農民を描き続けた画家」ジャン=フランソワ・ミレー|今月の画家紹介 vol.28
今回のアーティストは、19世紀フランスを代表するバルビゾン派の画家、ジャン=フランソワ・ミレー。「種まく人」「落穂拾い」「晩鐘」の三大名画で知られている。ミレーは、農民の姿を堂々と画面の主役に据えた最初の画家だ。それまでの西洋絵画において農民は脇役か、理想化された田園風景の点景に過ぎなかった。ミレーはその常識を覆し、黙々と大地に向き合う人々の姿に崇高さを見出した。なぜミレーの農民画はこれほどまでに人の心を打つのか。その答えは、彼自身の人生の中にある。
19世紀のフランスの画家。(1814年10月4日 – 1875年1月20日)
バルビゾン派の代表的画家の1人とされ、特に農民画で知られる。
ノルマンディーの農家に生まれた長男
1814年、フランス北西部ノルマンディー地方のコタンタン半島の突端近く、グレヴィル村グリュシー地区でミレーは生まれた。9人兄弟の長男であり、農家の跡取りとして期待される立場だった。
ミレーは7歳で学校に入り、12歳からラテン語を学びながら農作業を手伝っていた。同時にのめり込んだのが「写生」だ。18歳頃には、腰の曲がった老人が歩く姿を木炭で素描している。それを見た両親は感激し、シェルブールの画家ムシェルの画塾へ送り出した。これが画家ミレーの出発点となる。
1835年、父が亡くなると、21歳のミレーは農業を継ぐために画家の道を諦めようとした。そんな彼の背中を押したのが祖母だった。「お前の進む道は神様の思し召し」と語り、絵の修行を続けるよう強く勧めた。
その言葉を受け、ミレーはフランス北西部のシェルブールへ赴き、画家ラングロワの指導を受けることになる。ラングロワはミレーの才能を見出し、パリ最高峰の美術学校エコール・デ・ボザールへの進学を推薦した。ミレーは奨学金を得て、22歳でパリへ向かった。祖母と母は、家の財産を犠牲にする覚悟で彼を送り出したという。
しかし、彼はエコール・デ・ボザールのアカデミックな授業になじめず、出席もまばらだった。パリの狭い路地や不潔な安宿にも嫌気が差していた。一方で、ルーヴル美術館には熱心に通い、ミケランジェロ、プッサン、ティツィアーノ、フラ・アンジェリコといった巨匠たちの作品に魅了されていく。
そんななか1839年、画家の登竜門であるローマ賞やサロン(官展)に応募するも落選。奨学金も打ち切られ、ミレーはエコール・デ・ボザールを去ることになった。
最初の妻の死、カトリーヌとの出会い
しかし翌1840年、サロンに肖像画が初入選する。これを機にシェルブールへ戻り、肖像画家として活動を始めた。1841年には洋服仕立て屋の娘ポーリーヌと結婚。50点以上の肖像画を制作し、シェルブールの社交界で名声を得ていく。
順調に見えたなか、1842年に妻とともに再びパリへ移るが、ミレーとポーリーヌの貧しい生活は続いていた。不衛生な都会での暮らしも影響し、1844年、妻ポーリーヌは結核で亡くなってしまう。
深く落胆したミレーはパリを去り、再びシェルブールへ戻った。そこで家政婦をしていたカトリーヌ・ルメールと交際を始める。
しかし、カトリーヌの実家がブルターニュ地方の貧農だったことから、祖母と母は交際に強く反対した。1845年末、実家にも居場所を失ったミレーは、カトリーヌとともにパリへ向かう。この時期のミレーは、パステル調のロココ風作品を描いていた。これは「華やかな手法(マニエール・フルーリ)」と呼ばれる時代の作品である。
パリでの転機と「農民画家」の覚醒
再びパリへ出たミレーは、ロシュシュアール通りに居を構えた。この界隈には、若い画家や彫刻家たちが安い家賃を求めて集まっていた。ここでミレーは、後にバルビゾン派の同志となるテオドール・ルソー、シャルル・ジャック、ナルシス・ディアズ、コンスタン・トロワイヨンらと出会う。生涯の支援者となるアルフレッド・サンシエと知り合ったのもこの頃だった。
当時のミレーは、女性の裸体画を多く制作しながら生活費を稼いでいた。
しかし、ここで大きな転機が訪れる。ある日、ミレーは画廊の前で自分の絵を見ている二人の若者を目撃した。一人が「この画家を知っているか」と尋ねると、もう一人が「裸の女しか描かないミレーという画家だ」と答えたという。
これを聞いたミレーは、「二度と裸体画を描くまい」と決意した。そして、自分の心に忠実なテーマを模索した末にたどり着いたのが「田園風景」だった。ここからミレーは、自らが本当に描きたかった田園を主題に据えていく。
そんななか、時代もまたミレーを後押しする。1848年の二月革命で共和派が実権を握ると、知人だったフィリップ=オーギュスト・ジャンロンが国立美術館総局長に就任。これにより、ミレーにも内務省から発注が来るようになった。
さらに1848年のサロンでは、出品作《箕をふるう人》が好評を博す。
農民が赤・青・白のトリコロールを思わせる色をまとった構図は、共和国の理念と重ねて受け取られ、作品は内務大臣によって500フランで買い上げられた。また翌年には、政府からの依頼で《刈入れ人たちの休息》を制作し、1,800フランで買い上げられている。
ミレーの「農民画家」としてのキャリアは、ここから本格的に始まっていく。
バルビゾンへの移住、《種まく人》が巻き起こした嵐
しかし波乱は終わらなかった。1849年6月、パリでコレラが大流行する。上下水道の不備から、貧困地区を中心に2万人近くの死者が出る惨事となった。同時期には、ミレーの政治的支援者も失脚している。
友人シャルル・ジャックの誘いを受け、ミレーは家族とともにバルビゾン村へ移住した。フォンテーヌブローの森の入口に位置するこの村には、1820年代からコローが、1830年代からはルソーが写生に訪れていた。ミレーはサンシエへの手紙にこう記している。
「ジャックと私は、しばらく当地に滞在することに決めた。物価はパリに比べれば極めて安い。とりわけここの風景は素晴らしい。パリにいるよりもずっと静かに制作に打ち込めるだろうし、もっと良いものが描けると思う」
ミレーは結局、この村で残りの26年間を過ごすことになる。バルビゾンが終の住処となったのだ。
1850〜51年のサロンには名作《種まく人》を出品し、入選した。
大股で斜面を下りながら種をまく農夫を、画面いっぱいに描いたこの作品は非常に革新的だった。これほど堂々と、無名の農民を主役に据えた絵画に前例がなかったからである。
しかし、この作品は激しい論争の的となる。厳しい生活を強いられる農民についての政治的メッセージだと受け取られたのだ。保守派からは「ミレーは農民と呼ばれる悪党と同種の輩だ」と非難され、左派からは「現代の民衆の擬人像だ」と称賛された。
一方でミレー自身は、「社会主義者とのレッテルを貼られることがあったにしても、芸術で最も私の心を動かすのは、何よりも人間的な側面なのだ」と語っている。彼は政治的メッセージを描いたのではなく、自分が知る農民の真実の姿を描こうとしていた。
ちなみに、《種まく人》に最も強く感動した画家の一人が、フィンセント・ファン・ゴッホである。ゴッホは生涯にわたりこの構図を何度も模写し、自らの表現へ取り込んでいった。
《落穂拾い》と《晩鐘》、世界に知られる二大傑作
その後、ミレーは1853年のサロンで2等賞を受賞し、1855年のサロンでは4000フランで作品が売れるなど、好調な時期を迎える。
しかし1856年からは、2人の弟との同居や作品の買い手がつかない時期もあり、生活は困窮していた。支援者サンシエに資金援助を依頼したこともあったという。
そんななか、1857年のサロンに出品したのが《落穂拾い》だ。言うまでもなくミレーの代表作のひとつであり、収穫後の畑で、わずかに残された麦の穂を拾い集める3人の農婦を描いている。
なぜ、この絵が名作として語り継がれているのかについて触れたい。落穂拾いとは、地主の麦畑の収穫後に、貧しい農婦が残りの穂を拾う権利のことだ。当時、地主階級がこの慣習を廃止しようとする動きがあり、この慣習自体が政治的に敏感なテーマだった。
画面の手前には屈み込んで穂を拾う農婦たち、遠景には豊かな積みわらと馬上の監視人。この対比が「持てる者と持たざる者」を無言で語り、保守派からは激しい非難を浴びた。またしてもミレーはリアルな農民を描くことでスキャンダルを起こしたのである。
また、同時期に制作された《晩鐘》は、ミレーが祖母との思い出をもとに描いた作品だ。バルビゾンの隣に広がるシャイイの平原に鳴り響く晩鐘を合図に、農民夫婦が手を休めて祈りを捧げる。畑には収穫したジャガイモの籠が置かれ、夕日が二人のシルエットを温かく包む。
《晩鐘》はボストンの美術収集家トマス・ゴールド・アップルトンの依頼で制作されたが、彼が引き取りに来なかったため、ミレーは1860年にたった1000フランで売却した。
ところが死後の1889年、フランス政府とアメリカ美術協会が激しく競り合い、55万3000フランという驚異的な高値で落札される。最終的には80万フランで実業家が買い戻し、1909年にフランス政府へ遺贈されている。1000フランが80万フランに化けた。このエピソードは、ミレーの生前と死後における評価のギャップを象徴している。
さて《落穂拾い》でスキャンダルを起こしたミレーだったが、1860年代に入ると、ベルギー人画商との長期契約やグーピル商会との取引が始まり、経済状況は徐々に安定していった。しかし、サロンでの評価は依然として一進一退だった。
1863年に出品した《鍬に寄りかかる男》は、重労働にあえぐ農民の姿を描いた力作だったが、「脱走した殺人者がモデルではないか」との評まで出る酷評を受けた。
転機となったのは1864年のサロンだった。出品した《羊飼いの少女》が絶賛され、1等賞を獲得する。批評家カスタニャリは「技巧ではなく精神が、表面的な魅力の陰に存在している。まさに最高峰の芸術」と評した。この作品の成功を機に、ミレーへの評価は一気に高まっていく。
1865年には、パリの実業家エミール・ガヴェがパステル画の大量注文を申し出た。その背景には、「ミレーコレクションを作りたい」というガヴェの強い思いがあった。50歳を超えたミレーは、月給1000フランという条件で、1870年までに95枚のパステル画を納品している。この仕事をきっかけに、ミレーは油絵とは異なる明るい色彩のパステル画で、多くの風景画を描くようになり、新たな境地を切り開いた。
そして1867年のパリ万国博覧会で、ミレーには一室が与えられる。ここで《落穂拾い》《晩鐘》《種まく人》《羊飼いの少女》など9点の代表作を出展し、53歳にして巨匠としての名声を確立した。1868年には、フランス最高位の国家勲章であるレジオンドヌール勲章を授与される。さらに1870年にはサロンの審査員に任命され、ミレーは名実ともに巨匠として認知されていた。
そんななか、「四季」連作の制作を始めるが、この頃すでにミレーは脳腫瘍を患い、頭痛に悩まされていた。また1870年には普仏戦争が勃発。ミレーはシェルブールへ疎開したものの、野外での写生を禁じられる。しかし、それでも写生をやめなかったため、スパイ容疑で何度も勾引されている。
それでも政府からの依頼は途切れなかった。目がほとんど見えない状態でも制作を続け、1875年、ミレーはバルビゾン村で亡くなった。
晩年の傑作《春》は、「四季」連作の一枚である。
嵐の後、虹がかかる果樹園を描いたこの作品には、亡き友人ルソーへの鎮魂の思いが込められていると解釈されている。ミレーの風景画における最高傑作のひとつだ。
農民の「生きる姿」に崇高さを見出した革新的な画家
では改めて、ミレーの何がすごかったのか。
まず、19世紀半ばのフランス美術界では、歴史画や神話画が最上位のジャンルとされ、風景画や風俗画は格下と見なされていた。この時代に農民を描くこと自体が「低俗」だったのである。当時はサロンで入賞することが、画家で稼ぐために必要な条件だったが、農村風景のようなリアリズム(写実)的な作品を描いているとサロンで評価されない、という時代だった。
ミレーはそんな常識に対して、堂々と立ち向かった画家だ。都会人の満足する田園風景を描くのでもなく、政治的プロパガンダを仕込むのでもない。幼少期から体験した農作業の記憶を基に、大地に向き合い黙々と働く人々の姿をありのままに描いた。ここがすごい。それゆえ、政治的な批判を受けてきた。しかし描き続けるなかでミレーの絵は認められていく。1850年に《種まく人》を出品したサロンは「リアリズム最初のサロン」と呼ばれる。
そしてこうした写実的な風景画を次の世代にも引き継いだのがミレーの最大の功績だ。モネ、ルノワール、シスレーら若き印象派の画家たちは1860年代にフォンテーヌブローの森でミレーの近くで制作し、その影響を受けた。その系譜はポスト印象派のゴッホにも引き継がれる。
ちなみに日本では明治時代にミレーが紹介され、「清貧の農民画家」として熱烈に受容された。1923年、岩波書店は《種まく人》を社のマークに採用している。
西洋美術における写実画の発達の歴史のなかで、ミレーの功績はとんでもなく大きい。そして、その背景には移り変わるフランスを生き抜いた農民たちの土を踏みしめる音がある。
- Text : ジュウ・ショ
- Edit : Seiko Inomata(QUI)
















