「絵は理論で描く」点描の創始者、ジョルジュ・スーラ|今月の画家紹介 vol.29
今回のアーティストはジョルジュ・スーラだ。無数の細かな点で画面を埋め尽くす「点描」を生み出し、新印象派と呼ばれる潮流を切りひらいた19世紀フランスの画家である。印象派が感覚で捉えた光を、スーラは色彩理論と光学の知識で組み立て直した。彼の31年を、その理論の歩みとともに追ってみよう。
19世紀のフランスの画家。(1859年12月2日 – 1891年3月29日)
新印象派に分類される。スーラは、光学理論を取り入れた点描技法を確立し、補色による光の表現を追求した。綿密な下絵を重ねて制作した一方、写真の普及により写実表現への批判も受けた。
パリの良家に生まれ、画家になるまで
1859年、ジョルジュ・スーラはパリの裕福な家庭に生まれた。父は不動産投機で財を築いた元法律官吏で、一家は裕福だったため、絵で生計を立てる必要のない恵まれた境遇にあった。
絵の出発点は、彫刻家ジュスタン・ルキアンが運営する素描学校だった。そして1878年、スーラはエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学する。古代彫刻の石膏デッサンや巨匠の素描を模写するという、きわめてアカデミックな訓練を積んだ。
注目すべきは、この頃からスーラが「感覚よりも理屈で絵を捉えようとしていたこと」だ。多くの画家が筆のおもむくままに光を追ったのに対し、スーラは科学者による色彩や光学の理論を読み込み、色と光を理論として組み立て直す道を選ぼうとしていた。その姿勢は、後に「点描」という到達点へと結実していく。
1879年、兵役のため彼は美術学校を離れ、ブレストで1年を過ごす。パリに戻ってからは、友人アマン=ジャンとアトリエを共有し、しばらくはモノクロの素描の習得に打ち込んだ。1883年には国家が運営する展覧会「サロン」に初めて入選する。
同じ1883年、スーラは最初の大作《アニエールの水浴》に着手した。
セーヌ川のほとりで、パリ郊外の労働者たちが水辺でくつろぐ姿を描いた記念碑的な作品だ。興味深いのは、この絵にはすでに部分的に点描へ近づく描き方が見られる一方で、人物の肌などは伝統的な技法で描かれている。
スーラがまさに新しい技法を手探りしている途上だったことがうかがえる。だが、1884年に完成したこの意欲作は、官展のサロンで落選となった。
点描の誕生——《グランド・ジャット島の日曜日の午後》と色彩の科学
当時、画家は国家公認の官展「サロン」で認められなければ仕事を得ることが難しかった。それほどまでにサロンは重要な存在だった。そこに認められなければ作品を発表する機会は限られ、落選した者の多くは、ただ次の機会をうかがうしかなかった。
サロンに落選したスーラは、「サロンを通過しなければ画家として認められない」という当時の仕組みに失望する。
そして彼が取った行動が、いかにも彼らしい。だらだらと不満を述べて立ち去るのではなく、展覧会で出会ったアングラン、クロス、デュボワ=ピエ、そしてシニャックらとともに、まったく新しい組織「独立芸術家協会(ソシエテ・デ・ザルティスト・アンデパンダン)」を自分たちの手で立ち上げてしまったのだ。
この協会が1884年の年末に初めて開催した展覧会こそ、「アンデパンダン展(サロン・デ・ザンデパンダン)」である。審査も賞もなく、会費さえ払えば誰でも自由に出品できる――保守的なサロンとは正反対の理念を掲げた画期的な催しだった。
気に入らない発表の場に文句を言う代わりに、発表の場そのものをつくり直す。20代半ばの寡黙な青年が起こしたにしては、かなり思い切った一手だった。そして驚くべきことに、このアンデパンダン展は130年以上を経た今もパリで続いている。また、日本でも今なお毎年開催されている。スーラたちが築いた「無審査・無賞」という仕組みは、画壇においてそれほどまでに強烈なものだったのだ。
その後、1884年の夏、スーラは生涯最大の大作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》に着手する。セーヌ川の中洲に集う50人ほどの人々を描いたこの絵は、完成までに2年を要し、約60点もの習作が積み重ねられた。
ここで、彼の代名詞となった「点描」とは何かを見ておきたい。点描とは、絵の具をパレットで混ぜず、純粋な色の小さな点をキャンバスに並べていく技法である。近くで見れば無数の点の集まりにすぎないが、少し離れると点と点が見る人の目の中で溶け合い、まったく新しい色彩として見えてくる。スーラは補色を隣り合わせに置くことで、目の中で加法混色として認識させ、よりリアルな光を再現しようとした。
この技法を支えていたのが、当時の科学だ。19世紀には、ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールやオグデン・ルードといった科学者たちが、色彩や光、視覚の仕組みを次々に解き明かしていた。化学者シュヴルールは、隣り合った2つの色が少し離れて見ると別の1つの色として知覚されることを発見し、これが点描の理論的な土台となった。
スーラはさらにルードの色彩論から、絵の具を混ぜる「減法混色」と光が混ざる「加法混色」の違いを学び、ソルボンヌでのシャルル・アンリの講義では、線や色がもつ感情的な性質にも触れている。とにかく勉強を重ねていたのである。
印象派が開発した「筆触分割」という手法を突き詰めた先に点描があった。この「色彩を科学した」という点こそが、スーラの革新的な部分だ。
さて、《グランド・ジャット島の日曜日の午後》は1886年、第8回印象派展にも出品され、大きな話題を呼んだ。この絵を見た批評家が、同年の雑誌記事で初めて「新印象派」という言葉を用いる。スーラやシニャックらの新しい潮流は、ここから新印象派と呼ばれるようになった。
もっとも、当初の評判は芳しいものばかりではなかった。意外にも厳しかったのは画家仲間のほうで、「人々が皆真横を向いていて不自然だ」「草がきれいに刈り取られすぎている」「色彩が不自然に明るい」といった声が相次いだという。
一方で、批評家たちは斬新な技法を高く評価した。「新印象派」と呼ばれたものの、スーラ自身は自分を印象主義者だとは考えていなかった。彼が自らの技法に与えた呼び名は「光彩主義」である。彼には、印象派の後を追うという意識はなかったのである。
理論を極めた連作と、早すぎる死
名声を得たスーラは、その後も立て続けに大作を生み出していく。《ポーズする女たち(モデルたち)》《サーカスの呼び込み》《シャユ》 。一作ごとに重ねた準備は、尋常な量ではなかった。
この時期、スーラは「快活さは上向きの線と暖色・明るい色調で、平穏は水平の線と寒暖・明暗の均衡で、悲しみは下向きの線と暗く冷たい色でつくられる」と整理している。今では当たり前のように思えるが、こうした要素を言語化したことは、当時としては非常に斬新だった。
《シャユ》で踊り子の脚や楽器の竿が一斉に上を向いているのは、まさに「上向きの線は高揚を生む」という理論を実践したものにほかならない。
そして1891年3月29日、スーラはパリの両親の家で31歳の若さでこの世を去った。死因ははっきりしていない。髄膜炎、肺炎、感染性の狭心症、そして可能性が高いとされるジフテリア――そのいずれか、あるいは複数だったと考えられている。
スーラが生涯に残した比較的大きな作品は、わずか6点である。油彩は約60点、素描は約230点を数える。寡黙で内省的だった彼は、決して多作な画家ではなかった。一枚一枚を理詰めで組み立てる、徹底した構築の人だったのである。
光を「理論」で描き切った構築者
では改めて、ジョルジュ・スーラは何がすごかったのか。
彼の最後の大作《サーカス》は、死によって未完のまま遺された。サーカスを主題とした3作目となるこの作品もまた、上向きの線と暖色が画面を躍動させる、理論の集大成だった。
ズームインすると、黄色と青という補色が隣り合うように緻密に並べられていることがわかる。
完成を待たずに筆が止まったという事実が、かえってスーラという画家の本質を物語っているように思える。彼は最後まで、感覚ではなく理論に賭けた画家だった。
印象派は、移ろう光を「目で感じたまま」描こうとした。スーラが目指したのは、その一歩先である。
「光とは何か。色とは何か。人はなぜ特定の配色に高揚や悲しみを感じるのか」
科学者たちの研究を取り込み、絵画を理屈で組み立て直そうとした。だからこそ彼の作品には、静かで揺るぎない秩序がある。
盟友・シニャックは、スーラの死後、新印象主義を雑誌などで広く紹介した。控えめで人付き合いを好まなかったスーラにとって、シニャックの存在がなければ、その革新は世に知られないまま埋もれていたかもしれない。さらに20世紀に入ると、平面的で線的なスーラの構造は、キュビスムの画家たちの関心を強く引きつけることになる。
わずか31年。残した大作は、たった6点。それでもスーラは、「絵は理論で描ける」という途方もない確信を、点の集積によって証明してみせた。彼の絵の前に立てば、きっと気づくはずだ。無数の小さな点のひとつひとつが、計算し尽くされた光の粒であることに。
- Text : ジュウ・ショ
- Edit : Seiko Inomata(QUI)









