QUI

ART/DESIGN

「ミューズからの影響を受けつつ、過激な表現で独自の世界を築いた天才」エゴン・シーレ|今月の画家紹介 vol.15

Dec 12, 2024
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介する。

今回は20世紀初頭のオーストリアで活躍した画家、エゴン・シーレを紹介。彼は大胆で感情をむき出しにした作品で知られ、ウィーン分離派の次世代を担う存在として大きな影響を与えた天才画家だ。しかし、その人生は波乱に満ちたものだった。天才ゆえの自由奔放さ、そして周囲を巻き込む破天荒な生き様は、彼の作品に強烈な個性を刻み込んでいる。なかでも彼の人生には「ミューズ」が登場することが特徴だ。
シーレの28年という短い生涯を追いながら、彼が残した数々の名作とその魅力に迫る。

「ミューズからの影響を受けつつ、過激な表現で独自の世界を築いた天才」エゴン・シーレ|今月の画家紹介 vol.15

Dec 12, 2024 - ART/DESIGN
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介する。

今回は20世紀初頭のオーストリアで活躍した画家、エゴン・シーレを紹介。彼は大胆で感情をむき出しにした作品で知られ、ウィーン分離派の次世代を担う存在として大きな影響を与えた天才画家だ。しかし、その人生は波乱に満ちたものだった。天才ゆえの自由奔放さ、そして周囲を巻き込む破天荒な生き様は、彼の作品に強烈な個性を刻み込んでいる。なかでも彼の人生には「ミューズ」が登場することが特徴だ。
シーレの28年という短い生涯を追いながら、彼が残した数々の名作とその魅力に迫る。
Profile
エゴン・シーレ

オーストリアの画家。(1890年6月12日 – 1918年10月31日)
当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派を初めとして象徴派、表現主義に影響を受けつつも、独自の絵画を追求した。強烈な個性を持つ画風に加え、意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を多数製作し、見る者に直感的な衝撃を与えるという作風から表現主義の分野に於いて論じられる場合が多い。

史上最年少で美大に合格した天才

エゴン・シーレの写真、1910年代

エゴン・シーレは1890年、オーストリア・ハンガリー帝国に属するウィーン近郊で生まれた。家族は芸術とは無縁だ。父親は鉄道員、母親は家庭を支える専業主婦である。また、姉が2人と妹が1人いた。女系家族の中で育ったシーレは、幼い頃からお父さんっ子で、よく鉄道を観に行き、その様子をスケッチするのを楽しんでいたそうだ。

母親のマリアによれば、シーレが初めて絵を描いたのは1歳半のときだったそうだ。家族も彼の才能を応援していたが、それは「画家として成功してほしい」というより「職人のような安定した技術者になってほしい」という願いからだった。

シーレは小学生になっても絵ばかり描いていたらしく、父親はある日、シーレが勉強そっちのけでスケッチに没頭しているのを見て、スケッチブックを焼き捨てたそうだ。また、家族はシーレの成績が少しでも良くなるように、何度か転校させている。しかし成績は上がらなかった。逆にシーレは度重なる転校の結果、内気で周囲に馴染めない少年に育ったのである。

中学校に入ると、彼の美術の才能はぐんぐん高まっていく。特にスケッチの技術は抜群で、このころ美術教師から褒められたことでシーレは自信をつけた。また、体育も得意だったが、それ以外の教科では成績が振るわず、時には低学年のクラスで授業を受けることもあったらしい。好きなことに全力を注ぐ一方で、興味のないことにはまったく手をつけない性格だったのがよくわかる。

14歳のとき、シーレに人生の大きな転機が訪れる。それまで彼を支えてきた父親が梅毒で亡くなった。父を失ったシーレは深い喪失感に苛まれ、以前にも増して絵にのめり込むようになる。その結果、学業には手がつかなくなり、留年することになった。

しかしシーレは留年したことで、逆に「神が『美大に進め!』と言っている……!」とポジティブに考えた。そして、父亡き後に彼を支えていた叔父・レオポルドに美術大学への進学を直談判。叔父の理解を得たシーレは、16歳でウィーン工芸学校を経てウィーン美術アカデミーに特別入学する。

これは驚くべき快挙だった。当時、16歳はアカデミーの最年少記録で、しかもシーレは正式な美術教育を受けておらず、完全に独学での挑戦だったのだ。まるで高校1年生が準備もせずに東大に合格するようなものだ。16~17歳ごろに描いた作品を見ると、写実的な技法を確立しつつ、すでに独自のオリジナリティが感じられる。こうして、若き天才の才能は本格的に花開いていったのである。

《自画像》エゴン・シーレ 1906年(16歳)

《マリア・シーレ》エゴン・シーレ 1907年

アカデミーへの失望と、クリムトとの出会い

《自画像》エゴン・シーレ 1912年

アカデミーに入学し、念願の美術を学べると胸を躍らせていたシーレだったが、そこで彼を待っていたのは予想外の「退屈」だった。

アカデミーのカリキュラムは「ルネサンスに倣う」という、100年以上も改定されていない古典的な内容だったわけだ。しかし16歳のシーレが求めていたのは、こんな教科書通りの授業ではなく、もっと革新的で自由な学びだった。その結果、シーレはまたしても学校をサボるようになる。しかし驚くべきことに、最年少の彼はサボりながらも授業にはしっかりついていけた。

当時のアカデミーでは、毎日1枚のドローイングを提出する必要があったが、シーレはたまに学校に顔を出して一気に課題を提出し、それを見事にクリアしていたのだ。普段から1日に何枚も絵を描いていたシーレにとって、課題を片付けるのは造作もないことだった。繰り返すが、彼はアカデミー最年少の生徒である。末恐ろしい才能だ。

そんな自由奔放なシーレは18歳のとき、総合芸術展「クンストシャウ」を訪れる。そこで彼はウィーンの英雄、グスタフ・クリムトの作品に出会った。この1908年は、クリムトが代表作『接吻』を発表した年であり、その展示を目にしたシーレは大きな衝撃を受ける。

《接吻》グスタフ・クリムト 1907-1908年

クリムトはシーレの工芸学校時代の30歳年上の先輩にあたる人物だった。興奮したシーレはすぐにクリムトに会いに行き、弟子入りを志願する。クリムトはシーレに表現方法を教え、自らモデルを手配し、さらには翌1909年の展示会にシーレを招待した。

その展示会で、シーレはクリムトの後押しを受けて、自身の作品を出展しただけでなく、個展も開くことになる。しかし、アカデミーの規則には「公の場での出展は禁止」と明記されていた。これを受けて、シーレは同年にアカデミーを退学し、クリムトのもとで独自の道を歩む決意を固めたのだ。

以下の作品は1909年のものだが、明確にクリムトのモザイク的な表現に影響を受けていることがわかる。

《アントン・ペシュカの肖像》エゴン・シーレ 1909年

同じ年、シーレはクリムト主宰の「フランス印象派展」でフィンセント・ファン・ゴッホの作品を目にする。ゴッホの絵からは「やばい精神状態が伝わってくる」と感じ、大きな影響を受けた。また、この頃ムンクの作品とも出会い、彼の表現にも深く感銘を受けている。

シーレはこれらの芸術作品を通じて、「絵画が人間の内面を伝える力」に強く惹かれるようになる。こうして、彼の表現はさらに独創性を増し、深化していくのだった。

クリムトの影響を受け、セクシャルな作品を作る

《ストライプシャツを着た自画像》エゴン・シーレ 1910年 レオポルド美術館

シーレの作品は1909年から、明らかにヌードの女性が増えていった。それは間違いなく、クリムトの影響だ。

クリムトという画家は、とにかく女性ばっかり描いたことで有名である。それはもちろん「女性ならではの愛、生命、妖しさ」を描きたかったからだ。ただ、画業のためだけでなく、びっくりするほど女性好きで、一時期はヌードモデルを15人も囲い込んでいて、しっかり婚外子を作っていた人でもある。

20歳になったシーレも、女性の絵をどんどん描いていった。

《黒髪の少女》エゴン・シーレ 1910年

《胎児と女》エゴン・シーレ 1910年

シーレの作品のいちばんの特徴は「過激さ」だ。このころはヌードを描くことについて、だんだんウィーンも許容し始めていた。しかし性行為などを赤裸々に描くシーレの作品に関しては「おいシーレ、お前さすがにやめろ」とお咎めを受けることもあったそうだ。

しかし自由人・シーレがそんな忠告を聞くはずもなく、彼はこの時期から晩年まで「セックス」や「死」といったタブーばかりを描き続ける。そんななか、シーレの最初のミューズとなったのは4つ下、当時16歳の妹・ゲルトルーデ(通称・ゲルティ)だった。

この時期、シーレはゲルティのヌード画を描いている。かなりおかしい。いくらなかよしでも、兄弟間でヌードは描かないだろう。これ、シーレもやばいが、ゲルティも断れよ!と大声でツッコミたい。

そしてシーレはゲルティをモデルにするだけではなく、近親相姦までしてしまう。流石にゲルティは兄が一線を越えたことについて危機感を覚え、その後モデルの依頼を断るようになった。それでシーレは、ゲルティくらいの少女をアトリエに誘い込んで、ヌードを描くようになった。

そんな中、1911年、21歳のときに出会ったのが、シーレにとって最大のミューズといってもいい「ヴァリ」だ。4つ下の17歳であり、もともとクリムトのヌードモデルをしていた(諸説あり)。

《黒いストッキングを履いたヴァルブルガ・ノイジル》エゴン・シーレ 1913年

シーレは彼女と意気投合し、ウィーンを離れてチェコの田舎町で同棲を始める。

《恋人たち – ウォーリーとの自画像》エゴン・シーレ 1914年~1915年頃

しかし引っ越し先で娼婦をモデルに絵を描いていることが近隣住民にばれてしまい、2人は半ば村八分となってウィーン近郊の下町・ノイレングバッハに再度引っ越すことになった。

ノイレングバッハ時代のシーレは10代前半の子どもの絵をよく描くようになる。田舎町の子どもたちはウィーンの画家に興味津々で、少しの報酬だけで喜んでモデルになった。ここで紹介するのは、倫理的にまだOKな作品だが、なかには結構際どいのもある。

《子供たち》エゴン・シーレ

そんななか、ちょっとした事件が起こる。特にシーレに懐いていた、14歳のタナチアが家出をして、夜中にシーレとヴァリがいるアトリエに来てしまったのだ。2人は仕方なくタナチアを連れて近くのホテルで泊まり、翌日に家に戻る。

すると、彼女の父親が「この変態やろう!うちの娘を誘拐しやがって」と警察と一緒にやってきたのだ。もちろんシーレは何もやましいことをしていないが、警察が彼の家を調べると、出るわ出るわヌード画の山。シーレは22歳で1カ月ほど拘留されてしまうことになった。

エディットとの結婚から突然の死まで

シーレはこの事件によって「俺、世間的にはこんなにやばいやつだったんだ……」と精神的なダメージを受けた。それだけでなく、評判も地に落ち、絵の仕事もほとんどなくなってしまった。

そこで23歳ごろ、シーレは「常識人になろう。ちゃんと生きよう」と決意する。ヴァリは仕事がなく精神的にも追い詰められたシーレを献身的に支え続けた。普通なら別れそうなものだが、彼女は離れなかった。

《ワリー・ノイジルの肖像》エゴン・シーレ

24歳になったシーレはヴァリとともにウィーンへ戻り、そこで富裕層の娘であるエディットとアデーレという姉妹と知り合う。彼は2人と急速に親しくなり、関係を深めていった。

シーレは最低なことに、ヴァリという恋人がいながらも、エディットかアデーレのどちらかと結婚しようと考えていた。当時の彼は金銭的に困窮していたし「常識人」になるためにはヴァリと付き合い続けるのは適さないと考えたのだろう。

最終的に1914年、彼は「社会的にまともだから」という理由でエディットと結婚する。しかし、本当に最低なのだが、ヴァリとエディットに対して「これからはそれぞれと年に1回バカンスに行くから、仲良くしてくれ」と宣言。これにはヴァリも怒り心頭で「お前は本当にバカな男だ」と言い残してシーレの元を去った。

この別れをきっかけに、シーレは代表作「死と乙女」を描く。この作品は彼の名声を確立し「金のクリムト、銀のシーレ」と称されるようになった。

《エゴン・シーレ 死と乙女》エゴン・シーレ

シーレにとってエディットは第3のミューズとなった。2人は1915年に結婚式を挙げ、彼はエディットを描いた作品を次々と制作するようになる。

《縞模様のドレスを着たエディット・シーレ、座る》エゴン・シーレ 1915年

しかし、驚くべきことにシーレはエディットの姉・アデーレとも関係を持っており、彼女もまたシーレのモデルを務めていた。

常識人に憧れを抱いていたシーレだったが、結婚後も画風が変わることはなかった。エディットとアデーレとの荒れた関係を反映するかのように、セクシャルで過激な作品を発表し続けている。

《抱き合う二人》エゴン・シーレ 1917年

《両肘をついてひざまずく少女》エゴン・シーレ 1917年 レオポルド美術館

《膝を曲げて座る女性》エゴン・シーレ 1917年 プラハ国立美術館

1918年、彼はクリムトが主宰する展示会で50点もの作品を発表。これにより、それまで知名度の低かった彼の絵は一気に市場で注目を集め、高額で取引されるようになった。この成功によって、シーレは一気に富裕層の仲間入りを果たし、エディットとともに高級アパートにアトリエを構えている。

《家族》エゴン・シーレ 1918年 オスターライヒッシェ・ギャラリー

人気の絶頂にあった彼は、さらなる活躍を目指して燃えていた。しかし1918年10月、エディットがスペイン風邪に感染し、28日に亡くなってしまう。シーレ自身も感染し、3日後の10月31日にこの世を去った。まさにこれからというときに、彼はあっさりと命を落としたわけだ。

ちなみに前年の1917年にはヴァリが病で亡くなっている。もしかしたら、シーレの死はヴァリの呪いなのかもしれない。

シーレ作品の魅力は「底抜けの無邪気さ」にこそある

今回は、3人のミューズと関わりながら数々の名作を生み出したエゴン・シーレについて紹介した。幼い頃から天才的な才能を発揮していた彼だが、その行動は天然すぎて驚かされることも多い。

特にエディットとヴァリに「2人とも妻になってくれ」と言ったエピソードにはドン引きだ。完全にナチュラルサイコパスである。どんなにすごい功績を挙げても、だらしない印象が消えない。しかし、それもシーレの魅力の一部だと言える。彼は常識外れな発言や行動をする一方で、どこか憎めない部分があるのも事実だ。

例えば「常識人になりたいから社会的にまともな人と結婚する」と言ったエピソードは、彼の魅力が全開で笑ってしまう。それでも、いざ絵を描き始めると、とんでもなくユニークな画風でハイレベルな作品を作り上げる。このギャップが凄まじい。しかもイケメン。こんな人は、確かにモテるに違いない。

シーレの人生を振り返ると「女の敵だ!」と思う瞬間も多い。それでも、彼の作品は本当に素晴らしい。クリムトの影響を受けつつ、ゴッホやゴーギャンといった後期印象派のテイストを持ち、さらに1900年代中頃のグラフィティを感じさせる要素もある。

だからこそ、「ピエール瀧のコカイン問題は許せないけど、電気グルーヴの音楽は最高」とか「小山田圭吾のいじめ問題は嫌だけど、コーネリアスの曲っていいよね」みたいな感性をお持ちの方は、ぜひシーレの絵画をぜひ掘り下げてみてほしい。

 


実話を元に描かれる、エゴン・シーレの名画を巡る映画『オークション 〜盗まれたエゴン・シーレ』が2025年1月10日から公開

2025年1月10日(金)より、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか、全国公開

監督・脚本・翻案・台詞:パスカル・ボニゼール 『華麗なるアリバイ』
出演:アレックス・リュッツ、レア・ドリュッケール、ノラ・アムザウィ、ルイーズ・シュヴィヨット

©2023-SBS PRODUCTIONS

『オークション 〜盗まれたエゴン・シーレ』公式サイト

〈STORY〉
始まりは、競売人オークショニアに届けられた一通の手紙
パリのオークション・ハウスで働く有能な競売人(オークショニア)、アンドレ・マッソンは、エゴン・シーレと思われる絵画の鑑定依頼を受ける。シーレほどの著名な作家の絵画はここ30年程、市場に出ていない。当初は贋作と疑ったアンドレだが、念のため、元妻で相棒のベルティナと共に、絵が見つかったフランス東部の工業都市ミュルーズを訪れる。絵があるのは化学工場で夜勤労働者として働く青年マルタンが父亡き後、母親とふたりで暮らす家だった。現物を見た2人は驚き、笑い出す。それは間違いなくシーレの傑作だったのだ。思いがけなく見つかったエゴン・シーレの絵画を巡って、さまざまな思惑を秘めたドラマが動き出す…

  • Text : ジュウ・ショ
  • Edit : Seiko Inomata(QUI)

NEW ARRIVALS

Recommend