「習わないから評価された“ヘタウマの元祖”」アンリ・ルソー|今月の画家紹介 vol.3
第3回では、1890年代後半から1900年代にかけて素朴派の代表格として登場したアンリ・ルソーを紹介。彼の作品はまさに「習わないから描けた傑作」である。
どんなポイントが評価されたのか、アンリ・ルソーについて生涯を通して見ていこう。
19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの素朴派の画家。(1844年5月21日 – 1910年9月2日)
下手な画家と評されることが多いが、色彩感覚や繊細な表現に優れていた。
20数年間、パリ市の税関の職員を務め、仕事の余暇に絵を描いていた「日曜画家」であったことから「ドゥアニエ(税関吏)・ルソー」の通称で知られる。
40歳まで、いたって普通の税関職員だった
アンリ・ルソーは1844年5月にフランス・ラヴァル市で生まれた。日本でいうと「ペリー来航」の10年前くらい、というとイメージしやすいだろうか。
父親はブリキ職人だったが、事業が上手くいかず超貧乏生活。ルソーも幼いころから父親の手伝いをしていたらしい。つまり、ものづくり自体は幼少期から始めていた、ということになる。
ルソー一家は借金を返せず、何度か差し押さえになっており、そのたびに引っ越していた。ルソーは高校生まで、そんな貧乏生活のなかで暮らすことになる。
ちなみに高校時代の彼はいたって平凡な成績だったが、美術・音楽では小さな賞をもらうほど才能があったそうだ。どの学校にも一人はいる「文化祭や合唱コンクールのときにめちゃめちゃ輝く系男子」である。
そんなルソーは卒業後、19歳で弁護士事務所に就職。しかし悪友に「ちょっと事務所のお金盗んじゃおうぜ」とそそのかされ、15フランを盗んでしまう。そして、窃盗罪で1カ月の禁固を余儀なくされた。
その後、感化院(少年院のようなところ)に行くのが嫌すぎて、ほとぼりが冷めるまで軍隊に入隊する。しかし5年後の24歳のときに父親が逝去したため、残された母の面倒を見るために自ら除隊し、パリに住み始めた。
翌年には当時、10歳下の15歳だった地主の娘・クレマンスと結婚。翌年には長男が生まれるが、たった1年で亡くなってしまう。
少し先の話になってしまうが、クレマンスは7回の出産を経験している。しかし、そのうち6人の子どもが20歳までに亡くなった。また彼女自身も35歳で逝去している。その後、ルソーは55歳でジョセフィーヌという年上の女性と再婚するが、彼女も4年後にこの世を去った。
ルソーは生涯で配偶者・子どもに8回も先立たれているのだ。この喪失体験は、ルソーにとって重要だ。彼の表現欲求に影響をもたらしたのは間違いないだろう。
税関職員をしつつ「日曜画家」として絵画制作を始める
《自画像》 1903年 ピカソ美術館蔵 アンリ・ルソー
ここまでまったく絵画の話が出てこないことに筆者自身も若干の不安を覚えるが、それくらいルソーは「普通の人」なのである。申し訳ないが、読者の皆さまにはもうちょっとだけ辛抱してほしい。
さて、ルソーは27歳からパリの税関に勤めはじめる。「ルソーといえば税関」ってほど代名詞になっており、今でも世界中で通称「ドワニエ・ルソー(税関吏ルソー)」と呼ばれるくらいだ。
仕事は「商人がパリ市に入る際に税金を徴収する役目」で、超ホワイト。彼は30代のころには絵を描いていたらしく、上司が「絵画制作に没頭できるよう楽な仕事を回してやろう」という気持ちで、この仕事を依頼していた。
ちなみに社会人としてのルソーは割とダメなタイプ。恐ろしいくらい出世せず、この後49歳で脱サラするまで平社員だったらしい。ちなみに軍隊時代も5年間ずっと最下級の二等兵のままだった。社会人生活に対しては、やる気が起きなかったのかもしれない。
そんなルソーが初めて作品を出したのは1885年、41歳のときの「サロン・ド・パリ」だ。
しかしルソーの作品は無常にも落選してしまい、大衆の目に触れることはなかった。しかし新印象派の画家、ポール・シニャックの勧めで「アンデパンダン展」に『カーニバルの夜』を出品した。これが初めてルソー作品が大衆の目に触れた瞬間である。
《カーニバルの夜》 1886年 アンリ・ルソー
しかしこの作品は正直、まったく評価されなかった。批評家からは「なんじゃこれ。こんな不思議な作品は初めてみた。評価に困るんですけど……」というようなリアクションを受けた。
まずルソー作品に共通するポイントだが、遠近感や立体感がまるでない。また「カーニヴァルの派手な衣装を着た2人が森にいる」というテーマも意味されなかった。ちなみによく見ると後ろの小屋の小窓には男の顔がある。ちょっとシュール過ぎて面白い。
とにかくルソーの初戦は惨敗だったのである。
まさにルソーにぴったりだった、偉大なる展覧会・アンデパンダン展
「え、なんで評価されなかったのにアンデパンダン展には作品を出せたの?」という勘の鋭い方もいるかもしれない。ここで当時の絵画作品を取り巻く、展覧会事情について紹介しよう。
まずルソーが最初に出品しようとした「サロン・ド・パリ」というのは「政府主導の官展」のことだ。1737年、ルイ14世統治の時代からスタートして1798年から審査制度が加わった。何を目的に実施してたのか。ざっくりいうと「フランスの文化力を鍛えて諸国にアピールするため」である。
そのため、基本は「ちゃんとした絵」を評価する傾向にあった。つまり「デッサンはきちんとした線を引いてね」「モチーフは歴史画や肖像画がいい。ふわっとした風景画とかやめてね」みたいな暗黙のルールを決めたうえで出展できる作品を選んでいたわけだ。
少し前まで、NHKは特にコンプラにうるさかっただろう。つまりはあんな感じである。官営なので、コンテンツの質には厳しいのだ。
しかしサロン・ド・パリは政府主導なので、めっちゃ影響力が大きい。もはや「サロンに落ちる画家は絵でメシ食えない」くらいのレベル。だから画家は「サロンにウケるような秩序ある絵」を描く必要があったのである。
1880年のサロンの様子
そんなサロン・ド・パリに対して「いやいや、それっておかしいでしょ。もうサロンに認められないなら、俺らでグループ展やっちゃおうぜ」と声をあげたのが「印象派」の画家たちだ。
彼らは1874年~1886年まで、自分たちで「印象派展」を開催する。ただ印象派展にも「印象派のルール(黒は使用禁止等)」があった。実は印象派もちょっと閉鎖的な部分があった。
ただ、こうした民間主導の改革は「サロン・ド・パリってもう古くない?」というような風潮を高めることになり、サロン・ド・パリも1880年からは民営化に切り替わった。
そんななか新印象派の画家であるポール・シニャック、ジョルジュ・スーラの2名によって立ち上がったのが「アンデパンダン展」だ。
アンデパンダン展の様子
原則は「無審査・無賞・自由出品」。なので「出します!」と申し込んで出展料を払えば、誰でも作品を出せるわけである。これは美術史において、超重要な展覧会だった。
まず完全にアートの商流が変わった。これまでは「サロンに認められた画家に仕事が舞い込む」という流れだったが、「アンデパンダン展に来た画商がお気に入りの画家を見つけて、仕事を依頼する」という流れになったわけだ。
感覚的には「広告媒体に掲載される」から「SNSで誰でも発信できる」に変わったことに近い。アンデパンダン展により、埋もれていた才能が発見されるようになったのである。
ちなみに現在もアンデパンダン展は世界中で開催され続けている(日本では毎年3月に開催されているのでぜひ)。
世間から何の評価も得られておらず、描画の技術が高くないルソーには、とても相性が良かった。こうしてルソーは晩年までアンデパンダン展に自身の作品を出品し続けたのである。
批評家からは叩かれるが、前衛芸術家からは称賛される
《私自身:肖像=風景》 1890年 アンリ・ルソー
さて、話をルソーに戻そう。42歳ではじめて作品を出展したルソーは世間の声にめげずにアンデパンダン展に作品を出品し続ける。49歳(1893年)で脱サラするまでの作品は「平日は税関職員として働き、日曜日に絵を描く」という、いわゆる「日曜画家」だった。上の『私自身:肖像=風景』は代表作の一つだが、これも日曜画家時代の作品である。
ルソーの描き方はとてもユニークだ。「背景」と「人・動物などのモチーフ」の2点で構成される。彼は先に「自分が好きな風景」を全面に描き、そのあとで人物・動物を描いた。
全体のバランスを踏まえないので、まず遠近感がほぼない。また背景と比較して、人物が超巨大になってしまう癖がある。上の『私自身:肖像=風景』がまさにその例だ。前の人物がガリバーなのか、背景がシルバニアファミリーなのか。不思議な感覚に陥る。
1895年の『岩の上の少年』もそう。
《岩の上の少年》 1895年から1897年の間 アンリ・ルソー
ただルソーはもちろん、巨人を描きたいわけではない。だからファンタジックな要素はなく、人物が「私、普通でしょ」みたいにめっちゃ真面目な顔をしているのがミソだ。ここに独特なユーモアが生まれ、シュール(シュルレアリスム)な雰囲気が出ている。
これらの絵は、批評家から批評をうけた。新聞記事で「子どもが描いたような絵だ」「彼はパリで暮らすより田舎でキャベツ植えてたほうがいい」と書かれたこともある。
しかし前衛芸術家からは称賛の声もあった。例えば1891年にアンデパンダン展に出品した『熱帯雨林の中の虎』。これに対してスイスの若い画家、フェリックス・ヴァロットンは「どうしてルソーの作品を笑うんだい? このナイーブ(素朴)さこそ絵画の始まりから終わりまでを体現しているじゃん」と地方新聞に投稿している。
《熱帯嵐のなかのトラ》 1891年 ナショナル・ギャラリー蔵(ロンドン) アンリ・ルソー
また4つ年下のゴーギャンからは、後年「ルソーの黒はすごい。真似できない」という声もあった。この「習っていないからこその素朴さ」という革新性が前衛的な画家から評価されたわけだ。
先述したが、ルソーが生きた時代は「政府主導のサロン・ド・パリ主義」→「印象派展の登場」→「サロン・ド・パリの民営化」→「アンデパンダン展の登場」→「画廊などで開催される民営の展覧会の増加」→「今までにない革新性が求められる」という時代である。
つまり「アカデミーで勉強した技術力の高い画家」より「革新的な画風の画家」の価値が高まっていた。「上手いだけってもう古いでしょ」みたいな風潮だ。そんななか、ヴァロットンやゴーギャンといった「新しい表現に取り組む画家」はルソーの素朴さに惹かれたわけである。
49歳で脱サラし画業に専念
《水車》 1896年頃 マイヨール美術館(フランス語版)蔵(パリ) アンリ・ルソー
そんなルソーは1893年、49歳で退職願を出して年金をもらいながら画業に専念することを決めた。いわゆる脱サラだ。あっさりと書いているが、すごい決心だと思う。上司は「え、今から仕事辞めて画家って、大丈夫か?」とびっくりしたことだろう。
この年からルソーはフランス画家の聖地・モンパルナスに拠点を移した。年金はとても少なかったらしく、デッサン教室や音楽教室を開校して受講料をもらいながら、作品をつくりはじめている。
ちなみにデッサン教室の生徒は、70代以上のおじいさん2人だけだったそう。50代のルソーは、10代以来の貧乏生活に再突入してしまうことになる。この生活を物語るように、50歳のときには同居していた三女が「こんな貧乏もうやだ!」と叔父の家に引っ越している。
ルソーには自分の安定した生活を投げうってまで「絵を描くこと」に対する覚悟があったのだろう。そんな生活のなか、53歳で描いた傑作が「眠るジプシー女」だ。
《眠るジプシー女》 1897年 ニューヨーク近代美術館 アンリ・ルソー
ルソーの代表作の一つである。疲れ果てて眠るマンドリン弾きの女性に対してライオンが歩み寄るが、決して噛みつきはしない。「砂漠にライオン」というテーマが幻想的でおもしろい。一見ちょっと緊迫しそうな構図だが、ライオンの表情や、平面の構成がユーモラスで、なんだか安心感さえ覚える。
ルソーは地元・ラヴァルに「この作品を買ってくれ」と依頼したが、当時は市場評価も高くなく、この作品自体が理解されなかったので商談破棄となった。しかし今ではニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵されているほど評価が高い作品だ。
《戦争》 1894年 オルセー美術館 アンリ・ルソー
その後、ルソーは58歳で美術工芸協会の講師に任命されるが、無報酬だったため生活は安定しなかった。このころ、彼はお金が無さすぎて画材屋から借金をしており、その返済を自身の作品で払っている。
悲劇的なのが、画材屋がルソーの作品価値を理解していなかったことだ。ルソーの作品を見て「うわぁ、要らねぇ……。そうだ。漂白してただのキャンバスとして売っちゃお」と、洗浄液に浸けていたらしい。この背景もあって、現存するルソー作品は少ない。
また1905年には『飢えたライオン』を描く。ルソーの代名詞であるジャングルをモチーフにした作品だ。
《飢えたライオン》 1905年 バイエラー財団蔵(スイス) アンリ・ルソー
ルソーは1891年『熱帯雨林の中の虎』以来、ジャングルをテーマとした作品を避けていたが、このタイミングで再度描いた。ルソーがよく描くジャングルについて「彼が軍人だった時代に赴いたメキシコの風景をヒントにしている」という声もあり、実際長らく信じられてきた。
しかし実際はメキシコには行っておらず、パリ植物園、パリ自然史博物館で観察をしていたらしい、というのが最近の通説だ。
ピカソ、ブラマンク、アポリネール、ブラックなどから激賞された晩年期
ルソーが還暦を迎えるころ、相変わらず批評家からは批判されていたが、同業者からはめちゃめちゃ愛されていた。1905年ごろにマティス、ブラマンクによるフォービスムが生まれ、1907年ごろからピカソ、ブラックによってキュビスムが始まるが、ルソーの「素朴派(ナイーブ派)」はその間の期間で流行ったムーヴメントだ。
ルソーを慕う画家のなかでもピカソは当時「あなたと私は、いま最大の画家だ」と宣言するほど惚れこんでいた。ルソーより34歳年下の彼は、ジャンクショップでルソー作の『女性の肖像』を見つけ、とても感動して5フランで購入したそうだ。
《女性の肖像》 1895年 アンリ・ルソー
その後、1908年にピカソ主宰で「アンリ・ルソーの夕べ」という盛大な飲み会を開催。ざっくりいうと「ルソーを褒めまくる会」である。正直、ちょっとルソーをいじっている。
会場となったピカソのアトリエ「洗濯船」には、ギヨーム・アポリネール、マリー・ローサンサン、ジョルジュ・ブラック、ファン・グリス、マックス・ジャコブなど、画家や詩人がたくさん参加。とにかく盛り上がって、ルソーはバイオリンを弾いていたらしい。
今ではレジェンドとなった当時の若手画家・詩人が、ルソーの素朴な作品に革新性を感じ、影響を受けていたのである。ルソーは作品そのものにも価値があるが「後進への影響」という面でも偉大な画家だ。
ちなみにこの会に参加したとき、ルソーは詐欺容疑で服役した後の仮釈放時期だった。この詐欺事件はルソーが知人に騙されて共犯に仕立て上げられてしまったものだ。10代のころの事件もそうだが、とにかくお人よしで騙されやすいのがルソーである。
この服役中の光景をモチーフにした作品が『フットボールをする人々』。個人的にはルソー作品でいちばん好きな作品である。
《フットボールをする人々》 1908年 ソロモン・R・グッゲンハイム美術館(ニューヨーク) アンリ・ルソー
囚人服を着ていることから、服役中の光景を描いたと予想される。しかしわけがわからない。ツッコミどころが多すぎる。
まずなんだこのスポーツは。我々の知るフットボールとは明らかに違う。明らかに手を使っている。そして左端の男はあろうことか、ボディに一発入れようとしている。ボールを持っていない右端の男のポーズも謎すぎる。でもみんな楽しそうなのは伝わる。囚人とは思えないくらい楽しそうな絵だ。
と、還暦を過ぎても服役したり、若手画家とどんちゃん騒ぎしたり、ルソーは波乱万丈な生活を送った。そんな彼が66歳の晩年に描いた作品が『夢』である。ルソーの作品で最も知名度が高い。
《夢》 1910年 ニューヨーク近代美術館蔵 アンリ・ルソー
最後までその画風は変わらず、遠近感や立体感のない絵だ。しかし同じレイヤーのなかで緻密に植物・動物が配置されており、幻想的な雰囲気を醸している。動物の身体の一部が植物になったような、植物から動物が生えているような……まさに夢のような光景だ。
キュビスム・シュルレアリスムの名付け親としても知られている詩人、ギヨーム・アポリネールはこの作品を見て「この美しさを見てくれ。今年はもう誰もルソーの絵を笑えない」と称賛した。
しかしルソーはこの作品を出展してから約半年後に、66歳でその生涯を終えた。
誰かのルールじゃなく自分の“ルール”でモノを作ることの素晴らしさ
《蛇使いの女》 1907年 オルセー美術館蔵 アンリ・ルソー
ルソーの絵からは「習わないこと」の素晴らしさを感じる。あらためて「アートの価値とは何なのか」を考えさせられる。
誰かに習うと上手くなる。でもオリジナリティは薄れていく。ルソーは誰にも習わず、ただ自分の表現欲求のままに最後までマイルールのなかで絵を描いた画家だ。長い西洋美術の歴史のなかでもかなり独特な経歴だ。
「いやいや基本は大事でしょ」というアカデミックな声もあるだろう。しかし、そもそも「アートの基本」ってなんだ。「表現の基本」ってなんだろう。「基本」とは、実はそれまでの他人の常識の詰め合わせだ。そう考えると「習う」とは、あえて意地悪に書くと「誰かに呪われること」だともいえる。
これだけWeb・SNSが発達したなか、誰かの影響を受けたうえでオリジナリティを模索するのは、アーティスト・クリエイターの宿命だろう。誰でも発信できるからこそ、いつの間にか「大衆にウケること」を目的にしてしまいがちなのも事実だ。
しかし一方でルソーの作品を見るたびに、もっと原始的な「描きたい」という欲求の大切さを知るわけである。ルソーの素朴さとは、“上手い”や“ウケる”といった表層を超越したところにある「自分自身とは何者なのか」という原始的な問いなのだ。
- ライター : ジュウ・ショ