写真は、人間という存在を写せるのか — 「杉本博司 絶滅写真」展レポート
博物館のジオラマを写した〈ジオラマ〉、一本の映画が上映される時間を一枚に収めた〈劇場〉、世界各地の水平線を同じ構図で捉えた〈海景〉。焦点を外して撮影した〈建築〉や、蝋人形にカメラを向けた〈肖像〉では、目の前にある対象から、その背後にある想像や時間へと写真の射程が広がっていく。
展示を進むにつれ、衣服や数理模型、放電、光など、写真に収められる対象は大きく変化していく。一見すると異なる関心から生まれたように見えるこれらの作品は、どのようにつながっているのだろうか。
本記事では各シリーズをたどりながら、杉本が写真を通して何を見ようとしてきたのかを考えていく。
写真は、現実を写しているのか
写真は、目の前の現実を記録するメディアだと考えられてきた。目の前にある風景や人、出来事を光によって定着させる。その仕組みがあるからこそ、写真は「現実が写ったもの」として受け入れられている。
杉本博司の初期作品は、その前提を少しずつ揺さぶっていく。

「杉本博司 絶滅写真」展示風景 東京国立近代美術館 ©Sugimoto Studio
〈ジオラマ〉で写されているのは、アメリカ自然史博物館のジオラマ展示だ。写真になると、それがつくられた光景であることを忘れ、本物を撮影したように見える瞬間がある。

「杉本博司 絶滅写真」展示風景 東京国立近代美術館 ©Sugimoto Studio
〈劇場〉では、映画一本の上映時間を通して露光が行われる。写真に残るのは、物語でも登場人物でもなく、白く発光したスクリーンだ。上映されていた映画は消え、一枚の写真には、その時間だけが刻まれる。

「杉本博司 絶滅写真」展示風景 東京国立近代美術館 ©Sugimoto Studio

杉本博司 《相模湾、江之浦》 2025年 ゼラチン・シルバー・プリント 119.4×149.2cm © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi
〈海景〉では、世界各地の海が同じ構図で撮影されている。海と空、そして水平線だけで構成された画面からは、場所を特定する手がかりがほとんど消えている。《相模湾、江之浦》では、黒く沈む空と白く光を帯びた海との対比によって、水平線は海と空の境界というより、宇宙と地球を隔てる線のようにも見えてくる。
〈ジオラマ〉では、つくられた光景が本物のように見える。〈劇場〉では、一本の映画が白いスクリーンへと置き換わる。〈海景〉では、一つの海が、場所や時代を越えた風景として現れる。
写真に写るものは変わらない。変わるのは、それを見る私たちなのかもしれない。
写真は、目に見えないものを写せるのか
建物の背後には建築家の構想があり、人物の姿には、その人をめぐる記憶や想像が重ねられている。では、写真は目に見える姿を手がかりに、その背後にあるものまで写し出すことができるのだろうか。杉本は〈建築〉と〈肖像〉を通して、対象の奥へと視線を向けていく。

杉本博司《ワールド・トレード・センター》1997年 ゼラチン・シルバー・プリント 149.2×119.4cm
〈建築〉では、近代建築の名作が意図的にピントを外した状態で撮影されている。輪郭や細部は曖昧になり、完成した建物は、その背後にある構想やイメージへと想像を促していく。

杉本博司 《ダイアナ、プリンセス・オブ・ウェールズ》 1999 年 ゼラチン・シルバー・プリント 149.2×119.4cm © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi
〈肖像〉では、目の前の姿から、その人物について形づくられてきた像をたどっていく。歴史上の人物や著名人は、写真のなかで今もカメラの前に座っているかのように見える。
《ダイアナ、プリンセス・オブ・ウェールズ》は、その視点を象徴する作品の一つだ。一見すると、生前に撮影されたポートレートのように見える。写っているのは、残された写真や資料をもとに再現された蝋人形だ。
人は亡くなったあとも、残された記録や記憶、想像を重ねながら、その人物像を更新し続ける。写真に写る蝋人形も、そうした積み重ねのなかで生まれた一つの肖像といえる。
建築家の構想も、人々の記憶や記録によって育まれてきた人物像も、目には見えない。それでも杉本は、その目に見えないものを写そうとしている。
人間は、どのように世界を理解してきたのか
ここまで杉本博司が問い続けてきたのは、写真というメディアの可能性だった。
現実と虚構の境界を揺さぶり、時間や記憶まで写そうとしてきた。その探究はやがて、写真というメディアそのものから、それを生み出した人間へと向かっていく。ここからその関心は、人間がどのように世界を理解してきたのかという問いへと広がっていく。

《スタイアライズド・スカルプチャー118[クリスチャン・ディオール、 Soiree 1947]》 Photo: © Hiroshi Sugimoto, Object: © Christian Dior Couture collection, Paris
人は身体を守るために衣服をまとい、やがて装うこと自体を目的とするようになった。機能として始まった衣服は、長い時間をかけて身体と切り離せない存在となる。〈スタイライズド・スカルプチャー〉では、「人体とそれを包む人工皮膚」を近代彫刻として捉え、人間という存在をひとつの造形として見つめている。
また、人は目に見えない概念にも形を与えながら、世界を理解しようとしてきた。〈観念の形〉では、抽象的な数式を立体化した数理模型を写真に収めることで、見えないものを形にしようとする思考のあり方が浮かび上がる。
身体や概念を見つめてきた視線は、やがて自然そのものへと向かう。

「杉本博司 絶滅写真」展示風景 東京国立近代美術館 ©Sugimoto Studio
〈放電場〉は、暗室で写真を傷つける放電との格闘から生まれたシリーズだ。偶然生まれた放電の痕跡を観察し、実験を重ねるなかで、その探究は生命の起源や宇宙の始まりへと広がっていく。制御できない自然現象を観察し、その仕組みを探ろうとする試みは、人類が自然を理解しようとしてきた歴史とも重なる。

杉本博司 《Opticks 087》 2018年 タイプCプリント 119.4×119.4cm © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi
〈Opticks〉では、ニュートンの光学とゲーテの色彩論を手がかりに、プリズムによって分けられた光を撮影している。そこには、色と色のあいだにも無限の色が広がっている。光という一つの現象にも、異なる見方がある。
身体を装い、概念へ形を与え、自然を観察し、その仕組みを探ろうとする。杉本が見つめているのは、世界を理解しようとしてきた人間の姿なのかもしれない。
写真は、人間という存在を写せるのか
杉本博司が写真のなかに収めようとしてきた時間は、最後に一人の人生と人類の歴史へと行き着く。写真は一瞬を記録するメディアだと言われるが、杉本はその一瞬のなかに時間や記憶を重ね、人類が積み重ねてきた思考まで写そうとしてきた。

《CAMERA MAN》人間の視覚機構をカメラに重ね合わせて構想した作品。人間の眼(レンズ=水晶体、絞り=瞳、フィルム=網膜)の構造を手がかりに、3分間の暗闇を約5000年の人類史、1秒の露光を約85年の人生になぞらえている。
展覧会の最後に置かれた《CAMERA MAN》では、その視線が世界を見つめる人間自身へと向かう。人間の視覚をカメラへと置き換える構想のもと、杉本は3分間の暗闇を約5000年の人類史に、1秒の露光を約85年の人生へと重ね合わせる。
人類の歴史も、一人の人生も、宇宙の時間のなかではほんの一瞬にすぎない。現実と虚構を見つめ、身体を装い、概念へ形を与え、自然を観察する。そのすべては、人間が世界と向き合い続けてきた時間でもあった。
銀塩写真という技法の終焉と、自らの晩年を重ね合わせた「絶滅写真」。しかし本展をたどると、その言葉は写真というメディアの先で、人間という存在を見つめる問いへと開かれているようにも思える。
写真は、人間という存在を写すことができるのか。
プロフィール
杉本博司
1948年生まれ。1970年に渡米後、1974年よりニューヨークと日本を行き来しながら制作を続けている。代表作に〈海景〉〈劇場〉シリーズがある。2008年に建築設計事務所「新素材研究所」、2009年に公益財団法人小田原文化財団を設立。2017年には構想から10年をかけて建設された文化施設「小田原文化財団 江之浦測候所」を開設した。
演出と空間を手がけた『At the Hawk’s Well / 鷹の井戸』は2019年秋にパリ・オペラ座で上演。著書に『苔のむすまで』『現な像』『アートの起源』などがある。
主な受賞歴に、2001年ハッセルブラッド国際写真賞、2009年高松宮殿下記念世界文化賞(絵画部門)。2010年秋の紫綬褒章受賞、2013年フランス芸術文化勲章オフィシエ叙勲。2017年には文化功労者に選出、2023年に日本芸術院会員に就任。
開催情報
「杉本博司 絶滅写真」
会期:2026年6月16日(火)〜9月13日(日)
会場:東京国立近代美術館 1F 企画展ギャラリー
開館時間:10:00〜17:00(金曜・土曜は20:00まで)
主催:東京国立近代美術館、日本経済新聞社
公式サイト:https://art.nikkei.com/sugimoto/
問い合わせ先:ハローダイヤル 050-5541-8600
- Text&Edit : Y.O(QUI)