QUI

ART/DESIGN

規制されるほど絵が面白くなった、粋な江戸っ子画家・歌川国芳|今月の画家紹介 vol.31

Aug 16, 2026
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」を、アーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

今回のアーティストは歌川国芳。江戸時代末期の浮世絵師で、巨大な骸骨や擬人化された猫、幕府への痛烈な風刺など、その画題はとにかく振れ幅が大きい。なかでも彼が本領を発揮したのは、幕府が浮世絵を厳しく取り締まった時期だった。禁じられるほど手が込み、追い詰められるほど江戸っ子から喝采を浴びた。近年では「奇想の絵師」と呼ばれ再評価が進んでいるが、その奇想は、単なる思いつきの産物ではなかった。

規制されるほど絵が面白くなった、粋な江戸っ子画家・歌川国芳|今月の画家紹介 vol.31

Aug 16, 2026 - ART/DESIGN
難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」を、アーティストを取り巻く環境とともに紹介していく。

今回のアーティストは歌川国芳。江戸時代末期の浮世絵師で、巨大な骸骨や擬人化された猫、幕府への痛烈な風刺など、その画題はとにかく振れ幅が大きい。なかでも彼が本領を発揮したのは、幕府が浮世絵を厳しく取り締まった時期だった。禁じられるほど手が込み、追い詰められるほど江戸っ子から喝采を浴びた。近年では「奇想の絵師」と呼ばれ再評価が進んでいるが、その奇想は、単なる思いつきの産物ではなかった。
Profile
歌川国芳

江戸時代末期の浮世絵師。(1798年1月1日 – 1861年4月14日)
画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。

遅咲きの天才、31歳の大逆転

歌川国芳は1798年、江戸日本橋本銀町一丁目に生まれた。父は京紺屋、つまり染物屋だ。ちなみに、風景版画の名手・歌川広重とは同い年である。

国芳の絵の才は早くから現れていた。7、8歳で北尾重政の《絵本武者鞋》や北尾政美の《諸職画鑑》を写し、12歳で描いた《鍾馗提剣図》が初代歌川豊国の目に留まることになる。その縁もあって、1811年に15歳で豊国のもとに入門する。

初代歌川国貞《(初代)歌川豊国肖像》1856年 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵

歌川豊国といえば、華麗な役者絵で一世を風靡した花形絵師だ。兄弟子には歌川国貞がいた。師も兄弟子も当代最高のスターだった。そんな輝かしい一門から、歌川国芳のキャリアはスタートした。

初代歌川豊国《初代尾上栄三郎》1800年頃

ところが20代はまったく芽が出なかった。数点の書籍の挿絵や一枚絵などを制作していたものの、人気は出ない。歌川流派内の他の画家との競争も激しく、なかなか作品自体を発表できない状況が続いたのである。学資が乏しく月謝すら払えず、兄弟子・歌川国直の家に居候して仕事を手伝いながら腕を磨いていた。

少し人気が出た絵があっても、豊国や国貞の人気には到底歯が立たず、売れっ子には程遠かった。当時の困窮ぶりは、中古の畳を売って食いつなぐほどだったと伝わる。しかし、才能の萌芽は確実にあり、兄弟子の国貞は国芳の作品を脅威だと感じ、一層練習に励んでいたともいわれる。

そんななか、転機は師・豊国の没後に訪れた。1827年頃の大判揃物《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》や、1830年頃の《本朝水滸伝豪傑八百人》が爆発的にヒットしたのである。

歌川国芳《通俗水滸伝豪傑百八人之内》燕青 1830年代頃 大英博物館蔵

「揃物」とは、あるテーマに沿って複数の図で構成されたものだ。例えば葛飾北斎の《富嶽三十六景》は富士山をテーマにした揃物である。それが大判(39×27cm)ほどのサイズで描かれているのが「大判揃物」だ。

このシリーズで国芳がやったことは、はっきり言って「浮世絵を変える発明」といっていい。まず、それまであまり色数を使わなかった水滸伝の絵に多色刷りを持ち込んだ。当時の浮世絵では珍しいほどの色彩が盛り込まれている。

歌川国芳《通俗水滸伝豪傑百八人之一個 玉麒麟盧俊義》1827–1830年頃

そして、中国の豪傑たち一人ひとりを一枚の紙に大きく描き、その身体に刺青を彫り込んでいくのも特徴だ。このダイナミックで力強い画面から「武者絵の国芳」という名で呼ばれるようになり、彼は一気に人気絵師の仲間入りを果たした。31歳、遅咲きの大逆転である。

歌川国芳《本朝水滸伝豪傑八百人一個》1830年 大英博物館蔵

規制を「画材」に変えた男

売れっ子になった国芳は、天保元年(1830年)頃に新和泉町玄冶店の借家に移り、朝桜楼の号を使い始める。この時期、彼は武者絵だけでなく、洋風風景画、美人画、魚類画、風刺画まで一気に手がけていった。

なかでも注目すべきは、西洋画への異様な執着だ。
例えば《近江の国の勇婦於兼》という作品で国芳は、女性を伝統的な美人画の技法で描きつつ、馬だけを西洋風の陰影で再現している。同じ一枚の中に、二つの絵画言語が同居しているのだ。

国芳は当時なかなか手に入らなかった西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方を研究していた。1682年にオランダで出版されたニューホフの『東西海陸紀行』の挿絵には、国芳作品の典拠が多数見つかっている。彼は「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」と語っている。

そんな国芳が45歳のとき、事態は一変した。老中・水野忠邦による「天保の改革」が起きたのだ。天保の改革では、質素倹約と風紀粛清の号令のもと、人情本や艶本が絶版処分となり、浮世絵でも役者絵や美人画の一枚刷りが禁止された。

つまり国芳ら浮世絵師にとっては、売れ筋を丸ごと取り上げられたに等しいほどの苦境である。しかし、ここで筆を折らないのが国芳だ。彼は江戸っ子らしく、絵の中に精一杯の皮肉を仕込んだ。

《源頼光公館土蜘作妖怪図》は、表向きは平安時代の武将・源頼光による土蜘蛛退治の図である。だが実際には、妖術に苦しめられている頼光は将軍・徳川家慶、そっぽを向く卜部季武は水野忠邦を指すとされる。

そして奥にひしめくユーモラスな妖怪たちは、改革の被害者たちである。富くじの禁止を恨む妖怪や、寄席の禁止をかけて歯のないろくろ首。絵のいたるところに、悪政への風刺が隠されている。

歌川国芳《源頼光公館土蜘作妖怪図》1840年代半ば ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵

歌川国芳《源頼光公館土蜘作妖怪図》1840年代中頃 ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵

江戸の人々は、この作品に溜飲を下げて大喜びした。当然、幕府は国芳を要注意人物としてマークする。彼は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、罰金を取られ、始末書を書かされた。

また、国芳のユーモアはこれだけにとどまらない。「禁令をすり抜ける技術」という、何とも江戸っ子らしい技を磨いた。例えば《荷宝蔵壁のむだ書》では、「壁の落書きを写し取っただけだ」という方便を使って役者の似顔を世に出している。「ヘタウマ」の元祖と言っていい。

歌川国芳《荷宝蔵壁のむだ書》1848年頃 大英博物館蔵

これは画家の進化として面白い事例だと思う。政府の設けた制約が一種の芸術的挑戦となり、「批判を寓意に隠す方法を探させる」ことで、国芳の創意工夫は加速していった、というわけだ。

骸骨、猫、寄せ絵。発想で浮世絵をひっくり返す

水野忠邦が失脚すると、国芳は待ってましたとばかりに新機軸を打ち出し始める。この弘化から嘉永にかけての約10年が、彼のキャリアの頂点だ。

代表作《相馬の古内裏》を見てほしい。山東京伝の読本『善知安方忠義伝』に取材した作品で、平将門の遺児・滝夜叉姫が操る巨大な骸骨が、御簾を破って現れる場面である。

歌川国芳《相馬の古内裏 妖怪がしゃどくろと戦う大宅太郎光圀》1844年頃

原作では数百体の骸骨と戦うと書かれているところを、国芳は一体の巨大な骸骨に翻案した。しかも当時、大判3枚続は1枚ごとに切り離しても構図が成立するように描くのが慣例だったが、彼はその慣例を無視して画面いっぱいに骸骨を描き込んでいる。

売り方の都合より、絵の迫力を選んだのだ。加えて、この骸骨の描写は学術的にもかなり正確で、西洋の解剖学書を参照したものと考えられている。前章の西洋画研究が、ここで武者絵に接続されている。

また、《宮本武蔵の鯨退治》も巨大な作品だ。武蔵の強さを描くのに、相手が人間では物足りない。ならば桁違いの鯨と戦わせればいいという思い切った発想が楽しい。浮世絵3枚分を使い切った、ほとんど大スペクタクル映画のような一枚である。

歌川国芳《宮本武蔵の鯨退治》1847年頃

これだけでも、当時の浮世絵シーンとしてはかなり革新的な表現技法を使っているのが国芳のすごいところなのだが、なかでも個人的には《みかけハこハゐが とんだいゝ人だ》が面白い。

歌川国芳《みかけハこハゐが とんだいゝ人だ》1847〜1848年頃

人間の身体を組み合わせて一つの顔を作る寄せ絵で、絵の中には「大勢の人が寄ってたかって、とうとう、いい人をこしらえた。兎角、人の事は人にしてもらわねば、いい人には成らぬ」という詞書を添えた。寄せ絵と言えば西洋のアルチンボルドを思い出す方も多いだろう。西洋では「トロンプルイユ」と呼ばれる。

ジュゼッペ・アルチンボルド《ウェルトゥムヌス(ルドルフ2世)》1591年 スコークロステル城蔵

国芳の作品もアルチンボルドの影響がしばしば指摘されるが、国芳以前から日本にも寄せ絵の伝統はあり、当時流行していた細工見世物や駕籠細工から着想を得たとしても不思議ではない。

また、このほか国芳の黄金期の作品のモチーフと言えば「猫」である。国芳は無類の猫好きとして知られ、常に数匹、ときに十数匹を飼い、懐に猫を抱いたまま絵を描いていたそうだ。家には猫の仏壇があり、戒名を書いた位牌と過去帳まであったという。

例えば《其のまま地口 猫飼好五十三疋(みゃうかいこうごじゅうさんびき)》は、同じ年の歌川広重が描いた傑作《東海道五十三次》の宿場名をすべて猫の仕草の語呂合わせに置き換えた作品だ。今でいうと「おやじギャグ」なのだが、江戸時代の当時は立派な洒落である。こういうおしゃれなことをするのが国芳の魅力だ。

歌川国芳《其のまま地口 猫飼好五十三疋(みゃうかいこうごじゅうさんびき)》1850年

品川は「白顔」、程ヶ谷は「喉かい」、大磯は「重いぞ」、桑名は「食うな」といった具合である。《猫の当字 なまづ》では、猫の身体をくねらせて文字そのものを組み上げた。これは現代の漫画・劇画につながるような画風、発想だと言っていい。

また、国芳は56歳のとき、西洋絵画を本気で浮世絵に持ち込んだ。そのシリーズが《誠忠義士肖像 堀部矢兵衛金丸》、赤穂浪士をシリーズで描こうとした作品だ。

歌川国芳《誠忠義士肖像 堀部矢兵衛金丸》1852年 大英博物館蔵

明らかに当時の浮世絵の肖像とは筆致が違う。陰影のつけ方、躍動感など全体的に写実的にしており、これは当時の日本にとってあまりに革新的だった。

結果、この肖像は浮世絵を見慣れた国民からは受け入れられず、シリーズはすぐに打ち切られた。憤慨した国芳は意趣返しに、赤穂浪士を全員化け物の姿で描いた《ばか手本忠臣蔵》や、全員ガマガエルにした《蝦蟇手本ひやうきんぐら》、さらには《日本一のあほうのかゞみ》まで立て続けに発表。こうした失敗をネタにして大立ち回りをする姿勢が、国芳の素晴らしいところだ。

その後は、1853年、浦賀に黒船が来航した年、国芳は料理茶屋で開かれた書画会において、自らの着物を墨に浸して30畳の大紙に「九紋龍史進憤怒の図」を描いた。パフォーマーとしても面白いことをする画家だった。

歌川国芳《通俗水滸伝豪傑百八人之一個 九紋龍史進・跳澗虎陳達》

その後、日本は開国。ようやく西洋文化がどっと流入するようになり、国芳の表現も認められるか、という1860年には横浜港開港を記念して絵を制作した。しかし、その直後である1861年に生涯を閉じる。

鎖国中の日本にあって、西洋の空気を浮世絵に取り込み続けた男は、まさに一つの時代の変化とともに去ったわけである。

「縛りを楽しむ」という国芳の態度

歌川広重が色彩感覚や技法で浮世絵をアップデートしたとするなら、国芳は「発想そのもの」でひっくり返した人だ。ここが国芳のすごいところである。「ずるい」と言ってもいいかもしれない。

「天保の改革」は浮世絵にとって、事実上の廃業命令だった。現代でいえば、出版社に「タレント本と写真集はもう出すな。あと表紙の色は減らせ」と通達が来たようなものだ。普通は詰んでしまう。

ところが国芳は、制限がかかってから、なお絵がおもしろくなった人だ。

役者を描くなと言われたら、猫に演じさせた。「落書き」という体裁で無理やり役者絵を描いた。こういう芸当はよく「規制をかいくぐるための苦肉の策」として説明される。しかし国芳の絵を順に見ていくと、その言い方はどうも実態に合わない。防御しているというより、明らかに面白がっているとしか思えないのだ。

この背景にあるのは、ユーモアである。いわゆる「江戸っ子のユーモア」だ。上方の笑いが人情だとしたら、江戸の笑いは「不利な状況を平気な顔で引き受けてみせる意地の張り方」に近い。

そして何より、笑いを説明しない。解説するのは野暮であり、江戸において野暮は最大の罪である。そういう意味では、国芳の絵は「分かるやつだけ分かればいい」と、あえて突き放しているように見える。

決して告発しない。告発は正論であり、正論は野暮である。かわりに彼は、規制そのものを「画材」にした。制約が増えるほど、新しい形式が発明されていく。

私は国芳のこの態度こそが、彼の画家としての魅力だと思っている。そして、あらゆる事柄が毎日のように告発されてしまう今の世に、どうしようもない野暮ったさを感じてしまうのだ。国芳のように飄々としたユーモアを持ちながら、ゆらりと生きていたいものである。

【今作品を見るなら・・】
展覧会名:浮世絵スーパークリエイター 歌川国芳展
会期:2026年7月18日(土)~9月23日(水・祝)
会場:京都市京セラ美術館 本館 北回廊1階
住所:〒606-8344 京都府京都市左京区岡崎円勝寺町124
開館時間:10:00〜18:00(入場は17:30まで)
休館日:月曜日
*ただし、9月21日(月・祝)は開館
主催:関西テレビ放送、産経新聞社、京都新聞、京都市
企画協力:アートワン
公式サイト:https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20260718-20260923
Instagram:@kyotocitykyoceramuseum

  • Text : ジュウ・ショ
  • Edit : Seiko Inomata(QUI)

NEW ARRIVALS

Recommend