どこかにありそうで、どこにもない服を。紺田優太|KONYAデザイナー
広島ファッション専門学ファッションクリエーター学科を卒業後、株式会社LAPINEに入社。MDアシスタントとデザイナーアシスタントを経験し、2009年にCILANDSIAに転職し縫製などを担当。2013-14AWより自身のブランドKONYAを立ち上げた。
島根で生まれ、広島で育った
小学校のころに両親が離婚して島根と広島に別れたこともあって、行ったり来たりという感じで。島根は山陰、広島は山陽ということで、街並みだったり人の感覚だったりだいぶ違いますよね。僕はおっとりしているように見られがちで、よく島根っぽいといわれるんです(笑)。僕自身も育ちは広島ですが、ベースは島根だと思っています。島根の風景というのは、僕にとって心地いいもののひとつです。
広島はファッションが生まれる場所として良い環境ですが、島根ではあまりファッションが表に出てくることはありません。ただ最近ではJieDa(ジエダ)の藤田宏行さんのように、全国的に活躍されている方も出てきました。藤田さんは実家も近くて割と身近な距離感の人だったんですが、そんな先輩方がファッションシーンの前線で活躍している姿を見ると、島根もこれから盛り上がって来るんじゃないかなという期待がありますし、僕自身もそういう存在になれたらという思いがあります。
母親が導いてくれた、ファッションという道
広島の中学校を卒業後は野球で島根の高校に進学したんですが、中退しているんです。肩と肘を同時に壊してしまって。当時は自分も心が弱く、野球がやれないなら高校にいる意味がないと考えてすぐに辞めちゃったんです。その後、広島で大工をしている父の元に行き、16歳から2〜3年間は大工の修業をしました。
野球でも大工でも殴られることなんて日常茶飯事の時代でしたが、自分に正直でいることや、人の意見に左右されないことの強さ、その大切さを教えてもらえた時間だったなと今は感謝しています。
18歳ぐらいで大工を辞めて島根に帰ったのですが、僕は自分自身を見失って、何をすればいいのか分からない状態で……。そのときに母親が、「服が好きだったら、服を学べる学校があるよ」と教えてくれたんです。実家の近所にあるショッピングスクエアベルっていうお店で、広島ファッション専門学校のパンフレットを偶然持って帰ってきてくれて。それを見てファッションの学校があるということを初めて知りました。
野球を諦め、大工を諦めといった後悔の多い自分の10代の中で、ファッションって楽しそうという浮ついた気持ちでしたが行きたいと強く思ったんですね。ただお金がないので2年ぐらいいろんなバイトをして入学費を貯めて飛び込みました。
デザイン、縫製、販売員…今に活きる経験の数々
広島ファッション専門学校を卒業後、東京のミセス向けの企業ブランドでアシスタント職に就いたのですが、服作りを現場でやりたいという思いが高まったことから、CILANDSIA(チランドシア)というブランドに弟子入りさせていただきました。
CILANDSIAに入ってからは縫製を担当していたんですが、ブランド内でだれかが教えてくれるという環境ではなかったので、教科書を見ながら独学で技術を身につけていきました。そしてスタイリストさんなど第一線で活躍されている方々の時間の切り詰め方やストイックな姿勢に触れ、前職よりもはるかに大変な日々ながらも幸せで実りあるものだなと思えました。なにより当時は大好きなブランドの一員として立っていられるということがうれしかったですね。
そうしてCILANDSIAで修業しているときに母親が亡くなってしまい、僕もショックで死人のようになっちゃって……。島根に戻ってミシンを作る工場で働いていたところ、広島のセレクトショップから販売員のオファーが届きました。職歴がいろいろ複雑すぎてこんがらがるかもしれませんが(笑)。そこは広島でも名の知れたメジャーなお店だったんですが、お客さまと会ってさまざまな声を直に聞けて、「自分は自分でいいんだと」とあらためて自覚できました。今、KONYAという事業を進めるうえでも、販売員を経験したことはめちゃくちゃ活きているなと思います。
その後、販売員をしていたショップから、自分で服作りをしてはどうかというお話をいただきまして。そこで作ったのが2013-14AWです。最初は広島の数店だけだったので、勝手に服を作って売っているという状況でしたが、僕の場合は自分のお店に置けるというのがメリットでしたね。当時からのお客さんで、今でもKONYAを買ってくれている方もいます。その繋がりは僕にとってとても大切なものです。
歴史の交点に存在するKONYA
僕の苗字「紺田」の中に紺という字が入っているのですが、ウチは最近の代まで藍染め職人だったんです。藍染め職人は紺屋(こんや/こうや)という名前で屋号が受け継がれるらしく、ブランドを始めるときに僕は服で何を伝えたいんだろうと考えたときに、そこにピンと縁を感じて。服に携わる仕事をしていた家系の縦軸と、僕が生きてきた横軸、その交点に存在するものとして「KONYA」と名づけました。分かりやすく覚えやすい名前ですしね。
ロゴは少しいびつな三角形の集合体で構成されています。僕がデザインするものは正統なものではなく、何気ないシャツでも僕が作るものは歪んでいるんです。視覚的に歪むという意味ではないのですが。洋服って突き詰めると絶対的に確立されたものがある気がしていて、それはそれですごく大事だとは思います。ただ僕自身が表現するうえではそれを追いかけても仕方ない。カッティング、ディテールで違和感を入れ込むことは間違いなく意識しています。
昔から基本的にインポートブランドが好きで、中でもリトアニアとかオランダとか、洋服大国でない微妙なニュアンスが感じられる服が好きでした。今はあるのか分からないですが、オーストリアのHARTMANN NORDENHOLZ(ハルトマンノルデンホルツ)、ドイツのBUTTERFLYSOULFIRE(バタフライソウルファイヤー)などは20代前半ごろによく着ていましたね。
KONYAの服も、シルエットだったりカラーバランスだったり、今のトレンドに寄り過ぎていないところが良いという声はよく聞きます。僕は販売員をやっていた影響で現場に行きたいというのがあって、受注会もできる限り参加しています。各地のお店でお客さんに会って、「何でこれを買うんですか」とか「何でこれがいいんですか」と率直に聞くんですよ。そうすると「ありそうでない」という答えがよく返ってきます。いまのところはその微妙な違いがお客さまに伝わっているのかなとは感じています。
KONYAの定番として挙げるならシャツの襟。毎シーズン微調整してリリースしています。スタンドカラーとショールカラーがドッキングしたような特殊なパターンで、テーラリングの技術を使って仕立てており、アウターのようなシャツを作ったという感じです。最近ではジャケットやコートにも用いています。
色についてはインポートのカラーが好きです。国内の生地はビビッドな印象で、同じ赤でも微妙なニュアンスのカラーを出してくれるのはインポートのメーカーに多い気がします。もちろんグレースケールの基本のカラーは大好きなんですが、そこに入ってくる色にはそういったカラーバランスを意識していますね。
死ぬまで服を好きでいたい
今作っている服からは想像できないかもしれませんが、学生のころは尖った服ばかり作ってコンテストに応募していました。というか変な服しか作れなかったんですよね(笑)。勉強して普通のシャツを作りだしたのは、KONYAをスタートしてから。今の環境でしっかりと結果を出せたなら、ゆくゆくはまたふざけたものを作ったり、「デザイナーらしさ」を裏切るふざけた行動をしたりしてみたいですね。
ファッションに限りませんが、仕事にすると嫌だなということもたくさん出てきます。だから僕が服作りに向かうときに毎回テーマとなるのが、あらためて服を好きになるということ。そうするともう次のシーズンの服が作りたくてたまらなくなってくる。服を好きになるということが、次に進むための原動力になっています。
できることなら死ぬまで服を作っていたいし、死ぬまで服を好きでいたい。母親のおかげでファッションを仕事にできたんで、クサい話ですけど亡くなった母親になんとかやってるよというところを見せたいですよね。
あなたにとってファッションとは?
「人生そのもの」
その他のデザイナーインタビューはこちら
- Text : Yusuke Takayama
- Photography : Hiroko Sasaki